最近増々忙しい。希望のまち完成まであと少し。頑張るしかない。帰宅したまった原稿を書く。深夜になり「もう限界」とリビングに行くと伴子さん(連れ合い)が待っている。そこから「私の時間」は始まる。ネットフリックスで映画を見ながら一杯やる。少々あきれた伴子さんが「寝ないの」。「ああ」といい加減な返事。「先に寝るよ」と伴子さん。「どうぞ」と私。立ち去り際「明日の予定は」と尋ねる伴子さんにムカッとする。「僕は今日を終わらせようとしている。明日のことを聞くな」と言いたくなる。みっともない。伴子さんは何も悪くない。僕の身体を心配してくれているのだ。しかし僕は「明日」のことなど考えられない。考えたくない。「明日」も大事だが「今日が終わること」が何よりも大事な日もある。たとえ「刹那的」と言われても。
刹那的は「その場しのぎで」を意味する。調べてみると他にも意味があった。「刹那」は「ほんの一瞬」を指す仏教用語。「私の前世は何でしょう」と問うた弟子を「そんなことを考えずに刹那を大切にしなさい」とお釈迦さんが諭したそうだ。「今、この一瞬に全力を注ぐ」。それが「刹那的」ということらしい。
別にネトフリを見ながら焼酎を呑んでるだけだから「一瞬に全力を注いでいる」わけではない。しかし「明日は明日。ともかく今日を終わらせる」のだ。「今日を生きた」という事実で十分だ。「明日?知らんし」。「いろいろあったが今日は終了。最後までよく頑張りました」。それでいい。なのに僕らは「明日(以降)のこと」を考える。僕のスマホには「明日」どころか一年先の予定まで入っている。出張先のホテルで夜中に目が覚める。ここがどこだかわからないことがある。慌ててスマホを開けてみる。「明日の予定」を確認しながら「ええと今日は何をしてたっけ」と寝ぼけ頭で考える。迫りつつある「明日」に「今日」が翳(かす)んでいく。
話しは変わるが僕は長く「対人支援」の現場にいる。ただ「支援現場」は「今日の大事さ」を時々見失う。「解決」を目指す支援では「明日」のことを考える事が多いように思う。アセスメント、問題の整理、「主訴」を確定し支援計画を立てる。「目標」に向かって歩みが始まる。本人も支援者も半年後、一年後を考えている。その日のために「今日」がある、と思っている。悪いことではない。しかし、なかなか前進しない。解決しない。たとえそうでも「今日」を生き抜いた。ともかく「今日」を生き抜いたのだ。それは偉いと乾杯したい。一日を終わらせたことのすごさ。伴走型支援は「つながること」を重視する。だから「先にある(はずの)解決」に重きを置かない。刹那的なのだ。
「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日悩もう。今日の苦労は今日一日で十分だ。今日を生き抜いた君に乾杯」とイエスは言う。ああ「君に乾杯」は僕の創作です。お釈迦さんよりも少々現実的。いずれにせよ、明日のことは明日でいいことにする。とにもかくにも今日を生き、今日を終わらせたい。とにもかくにも今日を終わらせたあなたに乾杯!
今日を大事にする―希望のまち クラウドファンディング実施中!(さて原稿も書けたので一杯やるか!只今午前1時25分)
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