(この文章は、共同通信社の依頼で書いたものです。)
菅義偉新首相は、就任会見で「私が目指す社会像。それは自助、共助、公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる」と述べられた。いうまでもなく「自助」は大事だ。だが、「まずは自分で」は、必ずしも「自助」を大事にすることにはならない。「自助」というダムが決壊する、次に「共助」というダムで受け止める、それが決壊したら最後に「公助」が機能するという「助の序列化」は問題だし、「公助」が「最後」では遅い。なぜならば「公助」が登場する時点で「自助(私)」は壊れているからだ。本当に「自助」を尊重するのなら、「自助」「共助」「公助」が並行的に機能しなければならない。
「自助」が大切なのは、それが「私という個人」に関わる事柄だからだ。「自律(autonomy)」や「自決(self-determination)」という「個人の主体性」こそが「自助」の本質だ。「自助」は他人から強いられることではない。「僕が僕に対してがんばる」と言うことは悪いことではない。しかし、国から言われて頑張るのなら、それは「主体的な事柄」か。
「まずは自分で」が強調され過ぎた結果、生活保護世帯や困窮者、ホームレスに対するバッシングが常態化した。「自己責任が取れない人はダメな人」「他人に迷惑をかけてはいけない」という空気は「助けて」と言えない社会を生み出した。今回の発言が、社会の分断を進めることにならないか。「まずは自分で」の結果、国が作った法律や制度が活用されなくなるのなら、それは国が自らの存在意義を否定することになりかねない。
「自立」とは、他人に頼らず一人で生きていくことではない。自立とは「助けてと言えること」であり、自立を助長する社会とは「助けてと言える社会」のことだ。さらに「自立」とは「健全なる依存」だと考える。ここで言う「健全さ」は「相互性」を意味する。単に依存先を増やすのではなく「助け、助けられる関係」である。この「相互性」は「平等」でもない。世の中には「助けるのが得意な人」、あるいは「助けられることが得意な人」がいる。それぞれ自分の得意なことをすればよい。それをコーディネートするのが社会である。
菅さんは「たたき上げ」と言われている。それゆえに心配の声も上がっている。「独りで頑張ってきた」という思いが「自助」の前提にあるのではないかと。だが、まったく逆かもしれない。「たたき上げ」は、多くの人に助けてもらった結果ではないか。地盤も看板もカバンもない中、当然本人の努力もあったとは思う、だが多くの“赤の他人”の助けがその傍らにあったに違いない。まさか、「俺様独りでやってきた」と胸を張るようなことはできまい。「独りで頑張れ」がいかに現実離れしているかはご本人がご存じだと思う。
私には自信がある。「絶対に独りでは生きていけないという自信」だ。だから、「まずは、自分独りで」と言われれば胸が苦しくなる。いつか、どこかで菅さんにお会いできたら、そんな正直な気持ちをお伝えしたいと思っている。
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