「社会変革」。それが一層求められる時代となった。だが、それはどのようにもたらされるのか。こん な言い方をすると語弊があるかも知れないが「悲惨と向き合う」ことが大事だと思う。ウクライナでガザ地区で日々「悲惨」が繰り返されている。この国では子どもの自殺が500人を超え、格差は広がり続けている。地球環境は取返しのつかない状態になりつつある。世界は「悲惨」に覆われている。この現実に反吐が出るほど嫌悪感を抱くことが出来るかが問われている。悲惨に慣れてはいけない。「ありえない」という驚愕をもって対峙するのだ。
学生時代に日本最大の日雇労働者の街「釜ヶ崎」に出会った。1970年の大阪万博から十年以上が過ぎ、当時集められた労働者の多くが仕事を失い路上で暮らしていた。温室育ちの大学生だった僕にはあまりに「悲惨」だった。寒さ、暑さだけではない。風呂にも入れず、ゴミ場を漁り、公衆の面前で排泄をする。尊厳をはぎ取られた人間の「悲惨」をまざまざと見せられた。都合よく集められ、無用になると捨てられる。人が使い捨てにされ「景気の安全弁」と呼ばれる。何人もの人が路上で死んでいった。「こんな社会は変えなければならない」。そんな思いが当然のこととして沸き起こった。
どうやったら「社会変革」はなされるのか。18歳の学生には思いも及ばぬことだった。運動家の先輩に教えを乞う。「そうか、それが問題なのか」と一瞬思う。だが、その「論理」は目の前の路上の親父さんとはつながらなかった。労働運動が重要であることは言うまでもない。構造的悪を正さねばならない。「革命!」。すっかり鳴りを潜めたこの言葉だが、思い返すと当時もあまりドキドキしなかった。それはどうもその掛け声が目の前の親父さんの「幸せ」に直結しているとは思えなかったからだ。この矛盾は重要だった。
その後北九州に牧師として赴任した。ここでも「悲惨」があちこちあった。「行政が悪い」。当時は路上からの生活保護申請は受付すらしてもらえなかった。このまちでも路上死が見られた。しかし、行政が対応を変えたらこの親父さんは幸せになるのか。やはりつながっていないような不安が常にあった。当時の僕は「行政交渉」いや「行政闘争?」をしつついつもモヤモヤしていた。間違った社会を正す。しかし闘争に勝っても負けても、やはり目の前の親父さんが幸せになるということには直結しないように思えた。
社会変革を大上段に振りかざしても、目の前親父さんが笑顔で生きることにならない。関係ないとは言えないがつながらないのも事実。社会変革と親父さんの笑顔。本来一つであるべきものが一つにならない。この矛盾を容易には解消しないことが深い意味での社会変革をもたらすように思う。
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