松ちゃん家のテレビは、デジタル化する前のブラウン管テレビで、以前我が家にあったのをプレゼントしたものだった。大きなテレビの上は、上納された「約束の品」の陳列棚になっていった。「松っちゃんは二度と失敗しない」という確信があったわけではない。いや、そんなものは微塵もなかった。「絶対にこのまま断酒するはずはない」という思いは否定しがたくあったが、どこかで「もしかすると松ちゃんは約束通りに一年間酒を断つのではないか」という期待が不思議に僕の中で芽生えていた。それは昨年の五月以降の日々の中で少しずつ「澱(おり)」のように二人の中に沈殿していった絆、あるいはつながりのようなものが与えた恵みだったように思う。一人暮らしという今までにない「ハイリスクな日常」が始まろうとしていたが、僕の心の中には漠とした不安と共にとても落ち着いた「希望」が確かにあったのだ。
松ちゃんにとってお酒が問題であることは間違いのない事実である。だが問題は、そんな物理的問題、つまり「モノ」ではない。「モノ」ならば、それを排除し取り除けば解決する。その意味では「断酒」は有効な手段なのだ。しかし、松ちゃんの場合(松ちゃんの場合と言うのはすべての依存症の人に適応できるかどうかは不明であるという事)、その根底には、お酒という「モノ」の問題ではなく「ひとがいない」という問題、すなわち「孤立」という「ひと不在」の現実があったと思えたのだ。心配してくれる人がいなかった年月。死んでも誰も悲しまないという現実。さらに、自分を必要としてくれる人もいない。そんな現実が短絡的な行動に松ちゃんを誘っていた。そのままならば一時期断酒が出来ても結局上手く行かない。松ちゃんの中にある「穴のようなもの」が塞がらないと松ちゃんはそこから落ちていくからだ。その「穴のようなもの」をふさぐことが出来るのは「ひと」しかいない。もう少し正確に言うならば「穴のようなもの」をふさぐのではなく、小さくし、その深度を浅くするのだ。それが出来るのが「ひと」だけだ。「松ちゃん、それ以上近づいたら落ちるよ」と言ってくれる「ひと」の存在。「あああ、松ちゃんが落ちた」とすぐに気付いて手を差し伸べる「ひと」の存在。さらに松ちゃん自身が誰か他人に「そこ危ないよ」と言えたとしたら、たぶん松ちゃん自身が落ちることはなくなるだろう。「助けて!松ちゃん」と言ってくれる「ひと」の存在は、「おちおち落ちていられない」という使命を松ちゃんに与える。そもそも伴走型支援は、「ガードレールではなくセーフティーネット」である。「絶対落ちない、落とさない」ではなく、「落ちても死なない、死なせない」という支援だ。ルール違反の「お土産」だったが、今思うと、あの日々、僕は松ちゃんの部屋を訪ねる度に松ちゃんとの信頼を確かめていたように思う。
つづく
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