社会

10/14巻頭言「ゴーイングホームデイが運動会である理由」

 昨日第10回ゴーングホームデイが開催された。抱樸と出会い自立した元ホームレス、刑務所出所者、障がいがあり苦労した人、自らの存在意義が見いだせない若者、学校に行けない子どもたち。そんな人々が一堂に会して「運動会」をする。それがゴーイングホームデイだ。抱樸の活動は、今年30年目を迎える。私達が目指すのは「自立支援」だけではない。「何気ない日常」の回復だ。従来「問題解決」に終始してきた「困窮者支援」は、問題を抱える人を対象化し「助ける人と助けられる人」という構図を踏襲してきた。それは十分意味があるし、問題を抱えたまま生きるよりも、解決した方が良いに決まっている。しかし、社会が不安定化する中、一旦問題解決しても、第二の問題、第三の問題が次々に起こる時代となった。そうなると目先の問題解決だけでは安心できなくなる。そうなると問題解決よりも、誰かとつながっていることが一層大事になる。さらに問題解決しようが、しまいが「平穏な何気ない日常が続くこと」こそが本当に大事になる。
 ただ、この部分は「支援」という範疇を超えており、従来「自己責任」あるいは「家族で何とかして下さい」と言われる。「家族」が成立している間は、それもいいだろう。しかし、「家族いない人々」はどうするのか。あきらめざるを得ないのか。私は、家族がいなければ「家族になればいい」と思う。家族は、「あるか、無いか」ではない。家族は、「なるか、ならないか」だ。
 僕にとって「運動会」は「家族の日」であった。運動会に家族がお弁当をもってやってきたことを思い出す。お昼になるとゴザを敷いて観覧していた家族の下に子どもたちが集い一緒にお弁当を食べる。時には、おばあちゃんまで登場し、手作り「お稲荷さん」などを振舞う。あれから40年近くが経ち「そうはいかない家族」が増えた。運動会の日も「誰も来てくれない子ども」はいる。最近は、運動会の日も、子どもたちはお昼を教室で給食を食べるようになったという。ゴーイングホームデイは「運動会」だと思っている。僕は「運動会」にこだわる。なぜならば「運動会は家族の日」だからだ。今回参加した二百数十名は、「戸籍上の家族でもなんでもない」。しかし、ゴーイングホームデイは宣言する、「私達は家族だ」と。家族がいないなら家族になればいいだけだ。
 その証拠を紹介する。ゴーイングホームデイに、昨年は参加できた方で今年は来られない状態にある人いる。ある人は入院された。ある人は施設に入り、ある人は天国に行かれた。彼らに対して、私達はお見舞いに行き、訪問し、葬儀をした。これらのことは従来「家族しかしないこと」だった。それをするのが「家族」だというのなら、間違いなく私達は「家族」だ。
 聖書にこんな言葉がある。「もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ2章)。「神の家族」とは、何を意味しているのか。「同じ信仰を有する者同士」か。違うと思う。一緒に運動会に参加して、葬式をする。それが「神の家族」である証拠だ。

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