社会

10/16巻頭言「故人を悼むということ―私が国葬に反対する理由 その①」

 2022年9月27日、安倍晋三元首相の「国葬(儀)」が行われた。以前にも思いを書いたが、困窮かつ孤立状態にある方々と共に生きてきた者として、改めてこの件について思いを残しておきたいと考えた。少々長いが良ければ読んでいただきたい。
 今から34年前、おにぎりと豚汁、古着などを携えて路上で過ごす人々を訪ね始めた。その後、アパート入居や就労の支援など「自立支援」へと活動は広がった。「畳の上で死にたい」と言っていた人がアパートに入る。だが「これで安心」とはならない。「俺の最期は誰が看取ってくれるだろうか」。そんな不安が残っている。「自立が孤立」に終わり、最悪の場合「孤立死」になる。居住や就労が必要であることは言うまでもないが、それですべてが満たされるわけではない。そこには「孤立」の現実があった。
 出会った方が亡くなった場合、家族が葬儀を出すケースは一割に満たない。そもそも家族がいない人。連絡は取れたが家族が来ない人。葬儀は家族が担う行事である。だから、家族の縁が切れた人は葬儀をしてもらえない。それは人としてどうなのか。「弔い」は人類だけの営みだと言われる。動物はしない。「弔い」は人であることの証しだとも言える。それが叶わない。それは「人としての危機」だと言える。路上の人々だけではない。単身化が進む現代社会において「誰が葬儀を出すか問題」は深刻さを増している。「葬儀を誰も引き受ける人がいない」ことが、アパートを借りられない理由にもなっている。
 そんな現実と向き合う中で私たちは「家族機能の社会化」を課題とした。そのため2005年には専門スタッフを中心とした「地域生活サポートセンター」を開設した。さらに「家族機能」という極めて日常性の高い事柄を担うために相互に支え合う「地域互助会」を2013年にスタートさせた。現在、互助会には270人ほどが参加している。日々のサロン活動やお見舞いボランティア、バス旅行などを行うが(現在コロナで活動は控えめになっている)、最大の特徴は「互助会葬」である。
 「葬儀」は家族機能の最たるものだ。だから、家族がいない場合、葬儀自体が無くなる。そうならないために「赤の他人」が「家族のように葬儀を出し合う」仕組み。それが「地域互助会」である。
 これは「葬儀だけをやる」ということではない。なぜならば、葬儀は「つながり」の中で行われるからだ。葬儀当日、友人の弔辞や喪主(主に家族)の挨拶に会場が涙するのはそのためだ。互助会で葬儀を行うためには、日常のつながりをどれだけ創れるかが勝負だった。

つづく

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