社会

10/15巻頭言「小津安二郎と伴走型支援」

 最近小津安二郎監督の作品がしみる。ハリウッド映画とは違い悪者もヒーローも出てこない。地球の危機を救うとか、苦難に満ちた人生を乗り越えた感動ストーリーとかそういうことでもない。見終わった後「あああすきっきりした」ともならない。「東京物語」も「秋刀魚の味」も普通の家族を描いている。淡々とした家族の日常を「ここから、ここまで」切り取る。だからドキドキハラハラしないし涙が出るほど感動もしない。だが、じわじわくる。「そうそう」と「なつかしい」気持ちになる。
 巣立った子どもと親の齟齬、旧友との再会。そんな場面が続く。ただ戦争への嫌悪は明確で軍艦マーチが流れる飲み屋で戦友と酒を交わす親父たちは「戦争は御免」と失った子を思う。戦争で傷ついた当時の庶民の実感が伝わってくる。だが「反戦映画」ではない。何気ない日常の中に戦争への嫌悪が滲んでいるのだ。「終」の字が画面に出ると「え、これで終わり」と思う。「親父さんはその後どうなったの」。起承転結、一発大逆転に慣れた僕はそんな風に感じてしまう。つまり、問題解決型の映画に慣れ過ぎたのだと思う。
 家族の役割は二つある。一つは「問題解決」。「いざという時に助けてくれる」。それが家族だ(そういう家族に恵まれなかった人は少なくないが)。映画でいえばハリウッド映画。ヒーローが現れ問題を解決してくれる。しかし単身化が進み、家族の力も落ちた。「身内の責任」と言われても身内がいない。結果、葬式をする人がおらずアパートを貸してもらえない。それを補うべく「問題解決の支援制度」が種々創られた。ソーシャルワークとは「人々が生活していく上での問題を解決なり緩和すること」(日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡委員会)だそうだ。従来家族が担っていたことだ。   「問題解決」は劇的で達成感が伴う。一方解決できないとストレスになる。支援員はハリウッド映画のような劇的な解決を求め一喜一憂し時にバーンアウトする。早々には解決しない現実を前に「モチベーションを保つにはどうしらいいのか」と悩む。
 家族の役割にはもうひとつある。「何気ない日常の共有」だ。こちらが圧倒的に長大である。問題解決のための相談所に「用もなく行く人」はいない。しかし、家族は用がなくても一緒に居られる。時間制限もなく「だらだら」と過ごす。何気ない日常が僕らを包み込む。それは「ソーシャルワーク」ではない。だが、人が生きていく上で大事なことなのだ。小津監督が描いた世界はまさにこれだ。だが、これも単身化と孤立が進み「日常」が担保できなくなりつつある。だから「問題解決」同様に社会化しなければならない。「解決ではなくつながり」に重点を置く伴走型支援が必要なのだ。赤の他人が「何気ない日常」を構築する。ハリウッド映画のようにドキドキしない。面白くないが小津映画のような自然で温かいものがある。家族が果たしてきた二つの役割を社会全体、赤の他人のつながりでどのように補完するかが求められている。
 東八幡キリスト教会は神様の家族。だから問題解決のみならず何気ない日常の集積の場所。東八幡キリスト教会がのんびりダラダラしているのにはそんな理由がある。

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