(教団出版局から頼まれて原稿を書いた。「信徒の友」に載るらしい。)
3,「なおりたいのか」
信仰・宗教の本質は人間の不完全さの認識にあると思う。聖書はそれを罪人と呼んだ。「義人はいな い」(ローマ書3章)。神仏に愛され、赦され、助けてもらい生きていくしかない。この事実正直であること。それが信仰者だ。「大丈夫です」と背伸びしない。「神様、助けてください。憐れんでください」と正直に申し上げる。
ベテスダと呼ばれた池のほとりに38年間も病に苦しむ人が横たわっていた(ヨハネ福音書5章)。時々天使が降りてきて水をかき回すという。最初に水に入った人だけが癒された。ケチな天使だ。天使なら毎日かき混ぜてほしい。そんな男にイエスは問う。「なおりたいのか」。男は思った。「いや、いや、見ればわかるでしょう。こんなところに何十年もいんだから」。しかし男はトンチンカンな答えする。「水が動いた時に入れてくる人がいません」。彼は治らない理由の述べたのだ。だがそんなことは聞かれていない。イエスが聞きたかったのは「治りたい!助けて!」だった。「助けて」は原初的な信仰告白だ。
4,私も「助けて」は苦手だった
私も「助けて」は苦手だった。日頃は牧師であり、困窮者支援の現場にいるので、何となく「助ける側」だと思っていた。現に「助ける」のは得意。そこには大きな欠落がある。牧師にせよ、対人援助職にせよ「助ける技術習得」は大事だが「助けられる訓練」を受けていない。「支援力」と共に「受援力」、つまり援助を受ける力を知らねば本当の支援はできない。
長男は中学入学と同時に不登校になった。後にイジメが原因だと分かった。どうしても学校に行けない。そんな日々が二年近く続いた。口では「学校も進学もどうでもいいよ」と息子に言いながら「学校に行け」というオーラが出まくっていた。時にイラつき子どもにあたった。
中二の終わり、長男は単身で沖縄八重山の中学校に転校すると言い出した。断腸の思いで送り出すことにした。それにかけるしかなかった。学校見学に出かけた。島民50人ほどの島に見知らぬ親子が上陸した。目立つに決まっている。知らないおじいが家に呼んでくれた。「なんでこんな島にきたのか」。これまでのことを全部話した。そして「助けていただけませんか」と頭を下げた。すると「だったらこの島に来たらいいさ」とおじいは言ってくれた。涙が出た。「助けて」と言えた日だった。その日が「助かった日」だった。数週間後、長男は島に単身移住、一年と数か月を過ごし帰ってきた。少し大きくなって。
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