四、すでに祈られている私―「主の祈り」
先に紹介した若松さんは、祈りは「超越の声」すなわち神仏の声を聴き、その「意思」に耳を傾けること、すなわち「聴くこと」だという。
マザーテレサも次のように言っている。
「祈るためにまず必要なのは、沈黙です。祈る人とは、沈黙の人といってよいでしょう。」「祈りは願いごとではありません。祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くことなのです。」
祈る人は沈黙の人。彼は心の深みに語りかけられる神の声を「聴く人」だからだ。「祈り」は、人が神仏に対してあれこれと申し上げることだと私たちは考えてきた。しかし、それだけではない。いや、「祈り」の本質は別にある。若松さんやマザーテレサは、「祈り」を超越者、あるいは神仏の語りかけに見る。「人が神に祈ること」ではなく、「神が人のために祈る(語る)」。この主客の逆転が祈りにはある。
十字架に架けられる前夜、イエスは弟子のペテロにこう告げる。
「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章32節)。
ペテロはイエスの一番弟子であった。自分は十字架で殺されるとイエスが弟子に告げた時、ペテロだけは「たとえ死んでも離れません」と食い下がる。しかし、イエスは「あなたは、鶏が鳴く前に三度私を裏切る」と告げ、それは現実となる。このことが起こる直前、イエスがペテロに言ったのが先のことばである。
「たとえ死んでも離れません」と言ったペテロは、イエスの逮捕後、裁判が行われていた大祭司の庭に紛れ込む。「お前もイエスの仲間だ」と指摘された彼は、「知らない」と三度繰り返した。その時、鶏が鳴く。絶望の中でペテロはイエスの言葉を思い起こしたに違いない。「わたしは、あなたのために祈った」。ペテロは自分がすでに祈られていた事実を知る。
キリスト教において最も有名な祈りは「主の祈り」である。キリスト者でなくても耳にしたことがある人は多い。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。」
「主の祈り」は、イエスが弟子たちに教えた祈りを指す。だが、それだけではない。日本語で「母の祈り」というと「母が子どもに教えた祈り」ではなく、「母が子のために祈った祈り」を指す。子どものために一睡もせず祈り続ける母親。そしてついに「母の祈り」が天に届く。「母の祈り」とは、このことを言う。子どもは祈られる側であり、ただその恩恵を受ける側だ。 つづく
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