(教団出版局から頼まれて原稿を書いた。「信徒の友」に載るらしい。)
1,はじめに
言論の自由が脅かされている。首相の演説中にヤジを飛ばしたという理由で警察に排除される。そんなことが起こっている。報道機関は委縮し「報道の自由ランキング」で日本は68位(180ヵ国中。G7最下位)となった。
さらに自由に語れなくなった言葉がある。「助けて」である。この言葉は抑圧されている。影響が最も顕著に出たのは子どもたちだ。2022年子どもの自殺は過去最悪を更新した。514人。平均すると一日一人以上の子どもが自殺している。深刻なのはその約6割が要因不明であることだ(2018年文科省調査。大人の場合は8割程度要因がわかっている)。子どもは誰かに相談することもなく自殺に追い込まれている。つらければ逃げればいい、助けてと言えばいい、泣けばいい。子どもはなおさらだ。だがそれができない。
子どもたちはなぜ「助けて」と言えないのか。それは私たち大人が「助けて」と言わないからだ。「他人に迷惑をかけてはいけない」「自己責任」。そんなことを言い続けてきた。子どもたちからすると立派な大人とは「他人に迷惑をかけず自己責任が取れる人」なのかもしれない。しかし、それは事実ではない。私たちは助けられ生きているに過ぎない。
最近誰かに「助けて」と言ったことはあるか。言うと「甘えるな」と批判される。そんな重圧を感じる。しかし、この抑圧された言葉を解放すること、それこそが福音伝道なのだ。
2,聖書は「助けて」に満ちている
創世記2章。神は「人がひとりでいるのは良くない」と「ふさわしい助け手」を造られた。人が複数存在するのは助け合うためだ。創世記1章では世界は7日間で創造された。人はその最終日(安息前日)、最後の被造物として創造された。その人に対して「地を従わせよ。治めよ」(1章18節)と神は語られる。慌て者は自分が「神の代行者」に任命されたと勘違いした。世界を支配するのは自分たちだと自然破壊を繰り返した。「ひとりでいること」さえ叶わない弱い存在が神の代行であるはずはない。
私は思う。人が最後の被造物であったのは、先に造られたすべてのものが整っていない限り人は生きられないからだ。他の存在に助けてもらわないと生きていけない。それが人だ。だから「従わせよ、治めよ」は「守れ、大切にせよ」と理解するしかない。最後の被造物としての弱者の倫理が問われている。
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