相模原の事件では、重い障がいのある人々が虐殺された。犯人は「障がい者は、不幸をつくりだすことしかできない」「生産性の低い障がい者は殺した方がよい」と犯行に及んだ。彼は「確信犯」だ。「確信犯」は、「悪いことを承知で犯行に及ぶ人」と思われているがそうではない。「良いことをしていると確信して犯行に及ぶ人」を言う。彼は「意味のないいのちは殺す方が良い」と確信して、「日本のために」やったのだ。
2003年北九州市は、旧保健所を改修し「ホームレス自立支援センター北九州」を開所すると発表した。これに対して住民は反対運動を開始。四千人にも及ぶ反対陳情署名にはこう書かれていた。「市の中心部の高価な地所に生産性の低い施設を配置するよりももっと高生産性の施設を考えていただきたい」。生産性とは何か?
あるホームレスの親父さんは、私にこう語りかけた。「私は寝る前にお祈りします」。「まさか、クリスチャンですか」と尋ねると彼は「もう神には期待しません」と言った。この方は「毎晩、もうこのまま目が覚めませんように」と祈るというのだ。「死んだ方が良い」、ホームレス状態とは、そこまで人間を追い詰める。「ホームレス自立支援センター」は、反対を押し切って2004年秋に開所した。結果千人以上が自立を果たした。私は、「生産性の高い施設だ」と胸を張りたいと思う。あそこまで追い詰められた人々が今一度立ち上がり、生き、再就職し、さらにボランティアで活躍した。だが、現在の社会は、それを「生産性が高い」とは認めない。
今日の社会における「生産性」は、「経済効率性」のみを意味する。「金が儲かるかが全て」の時代になった。戦後、この国は「経済成長」を掲げ走ってきた。「経済至上主義」「市場原理主義」が貫徹される中、すべての判断基準が「お金」となった。経済成長している時は「金持ち喧嘩せず」と余裕を見せたが、低成長期となった今は「弱い立場に置かれた人々」に対し「税金の無駄遣いだ」とバッシングが始まった。生活保護世帯、ホームレス、そして重い障がいのある人々が標的となった。生産性とは何か?
糸賀一雄記念賞をいただいた。一九六八年、糸賀は講演中に倒れ亡くなる。54歳。「障がい福祉の父」と呼ばれる糸賀の功績を考えると糸賀の没年齢に驚愕を覚える。恥ずかしながら私も54歳。亡くなった年に発行された「福祉の思想」は、示唆に富む書物。50年を経過した今日もその内容は古くならず必読の書である。糸賀はその中で「この子らはどんなに重い障害をもっていてもだれととりかえることのできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である」(117頁)と語る。そうして糸賀は「『この子らに世の光を』あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である」と言う。
さて、生産性とは何か?糸賀の言う「光」を私たちは見出すことができているだろうか。「光は闇の中に輝いている。闇は光には勝てなかった」(ヨハネ福音書一章)と聖書は言う。この糸賀の残した遺言を嚙みしめている。闇の中に光を見出したい。
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