社会

本当の社会保障

昨日、第30期の「自立支援住宅出発式」が行われた。今回は二人の方が地域に出ることになった。「担当者」が半年間伴走する。伴走の目的は「家族になること」。大げさな言い方だと思うが事実だ。「担当者」の役割は様々で、訪問、食事、病院付添い、見舞い、買い物。出発が近づけば、アパート探しや、家財道具調達などもする。「担当者」は「赤の他人」。その「赤の他人」が「家族のようになる」。自立支援住宅が目指したものは、それなのだ。
「社会保障」とは、「最低生活の維持を目的として、国民所得の再分配機能を利用し国家がすべての国民に最低水準を確保させる政策」をいう。具体的には、年金制度、介護保険制度、子育てや教育など、あるいは失業保険の制度や生活保護を含めた給付の制度もそれにあたる。私は、社会保障の本質は従来家族が担ってきた役割を「社会化すること」だと思う。現在の日本社会は「家族だけでは面倒みられない」というのが現実だ。「身内の責任」と言ったところで、引き受けられない。だから、従来家族が何とかしてきた事柄を社会の中で仕組み化し、赤の他人が担う。それが社会保障の本質だ。NPO法人 抱樸の行っている活動は、家族機能を社会化したものであり、それを「再分配」に基づくシステムではなく、赤の他人が関わるという、実にアナログなことでカバーしようとしたのだ。
NPO法人 抱樸は、家族(家庭)の五つの機能を想定した。その第一は「家庭内のサービス提供機能」。食事、教育、睡眠、看護、介護など家族(家庭)は、直接的にサービスを提供してきた。第二は「記憶」。家族(家庭)は明文化していなくても「記憶の装置」であり、この記憶の共有がアイデンティティを形成する。さらに記憶の蓄積が現在起こっている事柄に対する対処の判断材料となる。例えば子どもの頃の既往歴(病気)を知っているからこそ、今の病気を推測できるのだ。第三は「社会資源とのつなぎ・もどし」。家庭内のサービス提供では対応できない事態となった場合は、社会資源とつなぐ。「いい医者やいい施設を捜してつなぐ」のは、家族の役割。そして、その病院がろくでもない場合は、すぐに「もどす」。「つなぎ・もどしの連続的行使」は、地域の資源を淘汰していく。第四は「役割の付与」。家族には役割が与えられる。人は助けられるだけではダメ。幼くとも、何等かの役割が与えられることが肝心だった。第五は「何気ない日常」。家族(家庭)は、四六時中何か機能を果たしているわけではない。いや、逆に「何もない時間」の方が長い。しかし、それでも一緒にいる。それが家族である。
NPO法人 抱樸は、この意味で社会保障を体現しようとしている。それは「全くの赤の他人がまるで家族のように生きていく」ことへの挑戦だ。なかなか上手くはいかない。でも挑戦する意義はある。
イエスは言う。「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ三章)。イエスは血縁を超えようとしていたのではないか。すなわち神の家族である。

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