また、先ほど取り上げた「しかし私は言う。敵を愛せ」の部分も全体はこのようになっている。マタイによる福音書5章34~48節「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「異邦人でもしているではないか」というイエスの言葉は、一見「差別的」に見えるが、これも「お前たち(ユダヤ人指導者)が犬呼ばわりしている異邦人でも」と読むべきだろう。「敵を愛せ」と迫るイエス。そんなイエスが、良い者にも、悪い者にも太陽を上らせ、雨を降らせる父なる神を語る。間違っても神の恵みをユダヤ人だけが独占するなどと、イエスは考えない。
イエスの福音が、当時、明確に引かれていた「スクラッチ―分断線」を一蹴していく。イエスの周りには、異邦人がおり、罪人、病人、障がい者、女や子ども、そして異邦人がいた。イエスは、彼らと共に生きた。だからこそ、イエス自身も彼らと同様「犬呼ばわり」され、差別され、排除された。ご自身、スクラッチ―分断線に苦しめられながら生きておられた。
繰り返す。だから、そんなイエスが「聖なるものを犬(異邦人)にやるな」とは言わない。言ってはいけない。これが東八幡キリスト教会が出会いの中から語る信仰告白的解釈である。そんな勝手なことを言うと「聖書を勝手に書き換えるな!聖なるものをなんだと思っているのだ」と叱られそうだが、そう言わざるを得ない。目の前にある分断線とそれに差別され、苦しめられる人が増え続けているからだ。だから、イエスがスクラッチ―分断線を蹴散して下さらないと困るのだ。「神学的根拠はないが、現実的必然はある」とはこの事だ。
6、東八幡キリスト教会は、今年犬になる
イエスは自ら「犬」を引き受けたられた。その道の先は十字架へと続いた。キリスト者はその後に従う。
戌年を迎えた。東八幡キリスト教会は、今年「犬の教会」を目指す。イエスがそうであったように、この分断の時代においては「犬呼ばわりされること」を恐れず、スクラッチ―分断線を蹴散らす教会になる。自分たちの特権や権利に甘んじるような教会にはならない。福音に「スクラッチ―分断線」を持ち込まない。「救われた人とまだ救われていない人」などという、自分たちだけに都合の良い勝手な言い分を吹聴しない。これらキリスト教内部に存在する分断線と私たちは闘う。
つづく
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