メッセージ

新年礼拝宣教 「『犬にやるな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」 その⑤

ユダヤ人(教)指導者にとって、これは返す返す許しがたい事柄だった。これこそが「聖なるものを犬にやる」行為に他ならなかった。旧来の宗教的権威はイライラしていたのだ。そのイエスに対して、彼らが「犬呼ばわり」していたとしても何ら不思議はない。イエスもまた、分断線―スクラッチの向こう側にいたのだ。
さらに、イエスは、ユダヤ人(教)指導者やその体制と実際に対決した。マタイによる福音書21章12・13節「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。「宮清め」と呼ばれる場面である。当時神殿では、神にささげるために「はと」が売られていたが、「はと」ならば、なんでもよいという事ではなかったようだ。庶民が自分で「はと」を準備して神殿に捧げようとしても、何かと文句をつけられた。「爪が欠けているから神様にふさわしくない」などとクレームをつけ、結局、神殿内で商売をしているところに行って、「高いはと」を買わされる羽目になる。両替も同様で神殿内で使う「特別」とされた金に両替しなければ「献金」できない仕組みになっていた。神殿勢力と一体となって金儲けを企む輩がいたのだ。イエスは、このような神殿の在り方に激怒。「お前たちは、神殿を強盗の巣にしてしまった」と言うのは、そういう現実を指摘した言葉だった。このイエスの「宮清め」に対してユダヤ人(教)指導者は「あの犬野郎め、殺してやる」と憤慨していたのだろう。
5、イエスの口癖―「しかし、私は言う」
マタイによる福音書の特徴として、イエス独特の言い回しというか、口癖がある。例えばマタイによる福音書5章43・44節「 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。イエスが、「~と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う」がそれである。そこで問題の「聖なるものを犬にやるな」を、このようなイエスの言い回しとの関連で読んでみようと思う。まさに苦肉の策である。
「『聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。」すなわち肝心な一言が実は抜け落ちていたという仮説である。「聖なるものを犬にやるな」は、イエスが言った言葉ではなく、すでに見てきたように日頃から犬扱いされてきたイエスやイエスの弟子たちにユダヤ人(教)指導者などが語っていた批判の言葉として読んでみたい。何の根拠もないが、イエスの生様や、日頃から言っておられる全体的なメッセージからすると、それは言うほど奇抜なことではない。いや、「聖なるものを犬にやるな」をイエスが言ったと考える方が、どちらかと言えば「奇抜」な読み方だとさえ思うのだ。

つづく

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