一、今年は戌年 毎年元旦礼拝では、干支にちなんだ話をしている。なんの意味もない。だが、就任以来づっとやってきている。そろそろ止めたいと思いつつ止められず、誰か止めてくれる人はいないかなあと思っているが、今年もともかく干支で話すこととする。干支と言っても、干支そのものについて話すわけではない。今年は、戌(いぬ)年なので、聖書から犬にちなんだ話をする。先日、現在の日本では犬が劣勢であるという報道があった。ペットフード協会というところが発表した2017年の全国犬猫飼育実態調査では、猫の推定飼育数が初めて、犬の数を上回った。なぜ、そうなったのかというと「人間の高齢化や1人暮らし世帯の増加などが影響し、散歩などの世話が必要な犬を飼う人が減った」という事らしい。ペットの動向ひとつとってもこの国の現状がわかる。
妊婦さんは、「犬の日に帯をするといい」と昔から言われている。何か宗教的な意味でもあるのかと調べてみると、なんと「犬はお産が軽いから」ということで、安産については、戌の日が吉日とされ、帯祝いなどにはこの日を選ぶということらしい。これはどうかと思うが、まあ、イワシの頭も信心だ。ただ、ペットの王様であった犬であるが、十二支で言う「戌」という字は、元々「滅」(ほろぶの意味)で、草木が枯れる状態を表しているそうだ。後に、分かりやすくするために「犬」が使われるようになった。だとすると、「戌(イヌ)」には良い意味がないということが解る。
二、聖書における犬 犬は、比較的多く聖書に登場する。だが、聖書においてもまた、犬はあまり良い意味では登場しない。パレスチナの世界において犬は「汚いもの」の象徴だった。町中をさまよい歩く(詩59編)。ゴミをあさり食べる(出エジ22章)、血をなめる(列上22章、詩68編)、死肉を食う(列上41章、列下9章)などなど。汚れの象徴だった。しかも、最も問題であるのは、犬が汚い、犬がダメだということ、そのものではなく、その犬を用いて、人間を蔑むことが行われていた点である。すなわち、人を侮辱する時に「犬呼ばわり」していたということ(サム上17章、列下8章)。これは最も酷い侮辱であった。そういうと私が学生の時、釜ヶ崎で機動隊員に囲まれた時、「イヌが来た」と言っていたが、これは良くない。
ルカによる福音書16章19節以下に「金持ちとラザロ」という話しが出てくる。ここにも犬は登場する。「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた」。その後、二人は死に、ラザロは天国に行き、金持ちは地獄で悔いることになるのだが、この前半の部分、ラザロのできものを犬がなめていたという。犬は、汚いという意味だから、ラザロは犬同様の状態だったことを表している。あるいは「その食卓から落ちるもので飢えをしのごうとしていた」は、金持ちの食卓から落ちたものはをラザロは食べていたということ。つまり、食卓から落ちた残飯を食べるというのは犬そのものであり、ラザロは、人間ではなく、犬のような存在であったと彼をさげすむ。
つづく
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