平和

恐れるな―戦(いくさ)は気から

8月29日朝6時。携帯電話がけたたましく鳴った。あの朝私は震災支援の事で石巻市のホテルにいた。叩き起こされ何事かと携帯を見ると「ミサイルが飛んでくるから丈夫な建物か地下に避難せよ」とのこと。「Jアラート」が作動したのだ。東北地方の大半の人が丈夫な建物も地下もない場所にいた。そもそもミサイルは発射から5分で日本列島を飛び越したという。眠い目を擦って携帯画面を見ていた頃、ミサイルは太平洋に到達していた。結果的には、危機感を煽っただけだった。首都圏では電車が止まったそうだ。だいたいその場所で止った方が安全か、走り去った方が安全か、誰にもわからない。確実なのは列車に乗っていた人たちには「不安」や「恐怖」が植え付けられたということだ。中には「北朝鮮」に対する「敵意」と「憎悪」を持った人もいたかも知れない。「大変だ」と政府は焚きつける。もうじき「竹やりをもってミサイルを叩き落せ」と言い始めるかも知れない。
ヒトラーの後継者と言われたヘルマン・ゲーリングは、ニュルンベルグ裁判時、心理分析官にこう述べている。「もちろん、一般市民は戦争を望んでいない。(中略)わざわざ自分の命を危険に晒したいと考えるはずがない。(中略)ロシア人だろうと、イギリス人だろうと、アメリカ人だろうと、その点についてはドイツ人だろうと同じだ。(中略)しかし、結局、政策を決定するのは国の指導者達であり、国民をそれに巻き込むのは、民主主義だろうと、ファシスト的独裁制だろうと、議会制だろうと共産主義的独裁制だろうと、常に簡単なことだ。(中略)国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」恐怖や敵意を国民に植え付けると「簡単に」戦争は始まると戦争を起こした張本人は証言する。
最近「病は気から」が事実であったことが証明された。「戦争」も同じ。戦争は、「恐怖」という「気」で始まる。繰り返された「北の脅威」とミサイル騒動は、私たちの中に「不安」「恐怖」「怒り」を蓄積した。「恐怖」の支配は、すでに成功しつつある。社会保障費がひっ迫する中、来年度の国防予算の概算要求は過去最高となったが批判は起こらない。沖縄の人々が「基地建設はやめてくれ」と体を張って訴えても、「危ない国があるから日米安保は必要だ」と多くの国民は一切耳を傾けない。すっかり「その気」になっているのではないか。
落ち着いて考えてみよう。それは本当か?君は飛んでいくミサイルを見たか。君や君の家族、友人が何か被害を受けたか。そんな風に尋ねると「実際に被害が出てからでは遅いではないか」と反論する人がいるが、さて、それも本当か。実際に起こっていないことを疑心暗鬼の中で進めていけば逆に「被害」招き込むことにならないか。歴史はそのことを証ししている。このままではかつてのように戻れなくなる。
「恐れるな」(マタイ福音書10章)とイエスは言う。いたずらに「恐れない」ことが大事。今日、私たちにとって大きく目を見開いて「事実」を見極めることが大切だと思う。

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