高知にいる。第四回生活困窮者自立支援全国研究交流大会。結構遠かったなあ。にも拘わらず1,200人が参加。主催者である生活困窮者支援の全国ネットワークの共同代表のひとりは、高知市の岡崎市長。「ぜひわが町で」ということで高知開催となった。私も共同代表。
岡崎市長からこんな話を聞いた。「この制度が始まる際に、現場職員が相談事業の理念を創った。『断らない。あきらめない。投げ出さない(関わり続ける)』。これが困窮者支援に関わる者の基本的姿勢である」。内容もさることながら、現場の担当者が創ったというのがすごい。しかし、これは言うは易しで、実行は相当大変な内容になっている。
「断らない」。現在の社会は、「いかにして断るか」ばかり考えている。その社会にあって、嘘でも(!)「絶対に断らない!」と言い切ることは重要だ。しかし、一旦相談を受けたとしても、結構難しい場合が多い。すると「そもそも無理なんじゃないか。やるだけやったんだから、もうあきらめよう。所詮本人の決意の問題なんだ」などという誘惑の声が聞こえだす。すると「あきらめる」ということになる。だから「あきらめない」と最初に決め込むことは重要。いわば、「あきらめる」という選択肢を、「最初からあきらめる」ことを決断する。高知市の決断は、本当にすごい決断なのだ。
だが、正直に言うと「意気込み」だけではどうにもならない。いや、それどころか支援員が抱え込んで、結果燃え尽き、病気になって辞めていく。そんなことが現場では起こる。NPO法人抱樸も例外ではない。しかし、この三つの決意で一番大事なのは、「投げ出さない(関わり続ける)」の一言だと思う。これを創った方々がそんな風に考えていたかは知らないが、僕はこう理解する。
ともかく引き受ける。だが問題解決は難しい。いろいろやるが解決しない。そんな時に「あきらめない」とは何を意味するか。それは「関わり続ける」ということ。「投げ出さない」は、「一層頑張って問題を解決する」ではない。すぐさま解決することの方が稀で、解決しないことが多い。となると、「投げ出さない」ということは「解決できなくても投げ出さない」ということであり、「解決できなくても関わり続ける」を意味する。僕は、「引き受けられないけれど切らない。解決できなくても切らない」などと考えてきた。解決できるか、できないかという二元論で臨めば、「あきらめ」、「投げ出す」しかなくなる。そうではなく、とにもかくにも「関わる」と言うこと。「独りにしない」ということが、今日の社会においては支援になる。「ただ関わるだけか、それだけか」と言うなかれ。これには、実は大きな意義がある。そもそも当事者には秘めたる力がある。問題解決は、最終的には支援者ではなく、本人が達成する。支援者は、材料を与えるに過ぎない。さらに、良い支援者は、時をわきまえる。「その日(解決の日)」が来るまでは「待つ」しかない。本人の力を信じ、待つ。それが、投げ出さない支援だと思う。
イエス・キリストは、インマヌエルと呼ばれた。それは、「神共にいます」という意味である。共にいる。それは「救い」なのだ。それでいいのだ。
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