自然

コスモス

抱樸館福岡で開催されたきずな祭の帰り道。福岡インターのすぐ横の「江辻コスモス畑」に立ち寄った。コスモスは満開。この場所は、菜の花、ひまわり、コスモスと年中道行く人を和ませてくれている。「江辻」というのは、ここを管理されている方のお名前なのか、地名なのかもわからないが、無料の駐車場も完備されており本当にありがたい場所。訪れたのは、もう夕方近い時間であったが、何人もの人が花を眺めておられた。

コスモスの原語であるギリシャ語は「秩序」を意味する。それから派生して英語のコスモスは「宇宙」を意味する言葉となった。宇宙とは調和と秩序の整った世界だ。旧約聖書創世記において神による天地創造直前の世界(と言えるものかどうかわからないが)は「地は形なく、むなし」かった(創世記一章)。この状態をギリシャ語では「カオス」という。カオスは、日本語では「混沌=すべてが入りまじって区別がつかないさま」という感じ。神による天地創造は、この混沌とした状態から神がことばをもって秩序ある世界を生み出す物語だ。神によって創造された世界は「秩序と調和」の世界であって、すなわち「混沌から秩序へ」というこの運動が神による天地創造という出来事だと言える。だから、人間が神から離反すると世界は再び混沌へと戻ってしまう。創世記六章のノアの箱舟の物語である。

子どもの頃、実家の庭にはコスモスが咲いていた。ベランダの下に広がるコスモス畑のような風景が子ども時代の秋の想い出となっている。しかし、その風景には「秩序」というイメージはない。そんなキチンとしたものではなく、自由に咲いているという印象。コスモスは、背が高い割には茎は細く、いつも風にそよいで揺れている。弱々しいが凛としている。そんな感じだ。ひまわりが一斉に太陽に顔を向ける、そんな統一感はない。

だが「秩序」とは元来そういうものなのかも知れない。神は秩序ある世界を創造された。それは混沌ではない。確かに神は世界を支配されている。それこそが秩序の根拠なのであるが、神は同時に人間に自由をお与えになった。自由であるところの人間は神の言いつけさえ破り禁断の木の実を口にする。神の創造された秩序ある世界とは、強制的で絶対的な神による支配の世界ではない。人間の自由を前提としたところの世界なのだ。神が創造された秩序は、自由な人間が自ら選びとることによって成立するもので「混沌から秩序へ」という神のみこころ、すなわち神の思いに対して人間が応答することを求めているのだ。

一本、一本では弱々しいコスモスが共同体のように咲き誇る。そんな風景を見ながら「コスモス=秩序」について考えた。

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