嫌な時代になってきているように思う。
それでもなお、私たちは、あきらめず社会を創るしかない。
何ができるかわからない。
しかし、できることは確実にやろうと思う。
ともかく出会うこと、生きること。
意見が違ってもいい、嫌いな人もいる。
それでも、出会い一緒に生きて、時には泣いて、時には笑う。
それで十分だと思う。
「いろいろあったが、あなたと出会って良かった」と言い抜く。
それが、この嫌な時代に対するカウンターカルチャー(対抗文化)となる。
嫌な時代だと感じたきっかけは、七月二六日、相模原市の障がい者施設で起きた事件に大きな衝撃を受けたからだ。
元職員であった二六歳の男性が施設を襲撃し、一九人を殺害。
四五人が死傷した。
容疑者は、その後警察に出頭し逮捕された。
抵抗も困難な重複障がいの人々を狙った事件は「異常」としか言いようがない。
だが、今回の事件を「異常な一人の青年が起こした事件」と考えて良いか逡巡する。
容疑者の青年は、自分の行為を「日本国と世界のため」としており「悪いこと」ではなく「良いこと」、あるいは「必然のこと」であると確信していたようだ。
「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております」
「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」
「障害者は不幸を作ることしかできません」
「障害者なんていなくなればいい」
「障害者には税金がかかる」
耳を疑う言葉が並ぶ。これは衝動殺人ではない。ヘイトクライムである。
すなわち「人種、民族、宗教、性的指向、困窮状況に置かれているなど特定の個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる犯罪」だ。
犯人の特徴は、自らの行為を正当化しており、そもそもそれを犯罪とは認識していないこと。
いや、それどころか「社会正義の実現」と胸を張るところにある。
「日本と世界のため」とはまさにそれを示している。
今回の事件は「一人の異常な青年の行為」ではなく、「現在の社会」の「価値観」や「ゆがみ」が大きく影響していると考える方が自然だと思う。
私がヘイトクライムと最初に出会ったのは一八歳の時だった。
一九八二年末から翌年二月にかけて横浜市内の公園などで、少年たちがホームレスを襲撃するという事件が続いた。
二月一二日、市内の中学生を含む少年十人が傷害致死の容疑で逮捕された。
彼らはテロリストでもなく思想信条を共有する結社のメンバーでもない。
彼らは「子ども」だった。
そんな彼らが徒党を組んでホームレスを襲撃したのだ。
事件の残忍さ、犯人が中学生を含む少年だったことにも驚かされたが、それ以上に少年たち供述はさらに驚くものだった。
「横浜の地下街が汚いのは浮浪者がいるせいだ。
俺たちは始末し、町の美化運動に協力してやったんだ。
清掃してやったんだ」「乞食なんて生きてたって汚いだけでしょうがないでしょ」「乞食の味方をされるなんて、考えもしなかった」「なぜこんなに騒ぐんです。
乞食が減って喜んでるくせに」。
彼らは、自分たちの行為の正当性を主張した。
それが大人社会の本音だと、彼らは知っていたからだ。
少年たちは自分たちが大人社会の代弁者であり、大人ができないことを代行したと考えていた。
少年たちをホームレス襲撃に駆り立てたものは何であったのか。
ストレスか。それもあるだろう。
しかしそれ以上に、彼らは「お前には生産性があるか、意味のある人間か」との問いにさらされていたのだと思う。
彼らもまた「生産性を証明しなければ、自分がやられる」という強迫の中で生きていたのではないか。
ホームレス襲撃は、彼らにとって「自分の生産性の証明」という意味があったのではないか。
ホームレスが街から消えることを大人社会は「喜んでいる」。
それを見抜いた少年たちは大人に喜んでもらうため、つまり「自らの生産性」や「有用性」の証明としてホームレス襲撃を実行したのだ。
彼らも彼ら自身が襲撃したホームレスと同時代を生きていた「同時代人」であり、「生産性」がないと排除されるホームレスを自らの生産性の証明として襲撃していたのである。
相模原事件の彼もまた「生きる意味があるのか」という「生産性の問い」にさらされた同時代人であったことを忘れてはいけない。
家族を殺害された遺族は、彼のことを決して赦すはできないだろう。
しかし、「あのような事件を起こしたからには、もはやお前には生きる意味はない」と彼に言ってしまうならば、私たちは、出口のない暗闇の深淵に迷い込むことになる。私たちは相模原事件後を生きなければならない。
聖書の教えるところによれば、人間は本来善悪を知ることができない。そのような人間として私たちは、答えのない問いの中で呻吟するしかない。
善悪に対して安易な答えにしがみつくよりは、「わからない」と言う方が真実に近いように思う。
信仰とは、安易な悟りではない。
善悪に対する「留保」は信仰的態度に他ならない。
正直、わからない。
しかし、前に向かって生きていこう。
顔を上げる。
青空が広がっている。
祈りつつ歩んでいきたい。
この記事へのコメントはありません。