生きる

なかま―タダシさんの祈り

 タダシさん(仮名)には家族はない。彼は原爆孤児として戦後を生きてきた。

 タダシさんと初めて会ったのは十数年前。黒崎駅前の歩道橋の下、都会の隙間のような空間に「なかま」と肩を寄せ合って暮らしておられた。

 タダシさんは、福岡で不動産会社の部長をしていたという。数年前までは、仕事も順調だった。正月には高層マンションの自室に部下を呼んでおせちを食べた。しかし、バブル崩壊とともに会社は倒産。そのあおりでタダシさんも全財産を失った。そしてホームレスに。「まさか自分が」と何度も自分を疑ったが、現実はその「まさか」そのものだった。気が付けば路上に座る自分がいた。

 「もうだめだ」とあきらめかけたその時、北九州でホームレスの自立を支援する団体があることを知った。後は無かった。「ともかく」という思いで小倉に向って歩き始めた。距離は六〇キロ以上。三日がかり、飲まず食わずの状態で何とか北九州にたどり着いたが、目的の小倉まではもたなかった。北九州第二の都市、黒崎で力尽きた。駅前には同じような境遇の人々がおり、助けてくれた。そして、一緒に暮らし始めた。

 一方、私たちは自立支援住宅という民間施設を立ち上げたところだった。行政が腰を上げない中、しかし確実に支援は実り始めていた。半年の自立支援プログラムを経て自立する人は九三%に及んだ。自立生活の継続率も九〇%を超えた。周囲からは「脅威の実績」と言われるようになった。テレビや新聞の取材も相次ぎ、それが「噂」となってタダシさんに届いたようだ。

 黒崎に新しい人がいるとこちらも「噂」が耳に入った。訪ねてみることにした。初めてタダシさんに会った日、彼がこう言ったことを覚えている。礼儀正しい方で話も丁寧になさる。口ひげを蓄え上品な感じ。何よりも目が優しかった。「私は眠る前にお祈りするんですよ」とタダシさんは言う。牧師の私は「ひょっとしてクリスチャンですか」と期待をもって尋ねると「いいえ、こんな状態になって神も仏も期待できません」とタダシさんは仰った。「じゃあ、何を祈っているのですか」と尋ねると、「毎晩寝る前に『もう目が覚めませんように』と祈るんです」とタダシさんは静かに仰った。さらに、「朝、目が覚めると『ああ、今日も生きてしまった』と思うんです」とも。それは、野宿生活がいかに過酷で絶望的であるかを物語っていた。

 野宿になって何が一番困ったかを尋ねた。「空腹はたまりません。外で寝ることもきつかった」。六十歳を過ぎての野宿生活は肉体的には相当厳しいものであった。だが、タダシさんはもっとつらかったことがあったと話を続けられた。「それ以上にしんどかったのはこの世の中から自分の存在が消えたように感じたことでした。それまで普通に暮らしていた時は、道を歩いていても見知らぬ人でもあいさつをしてくれました。子どもを連れたお母さんが笑顔で会釈してくれた。しかし、野宿になり道ばたに座った途端、誰ひとり私に語りかける人はいなくなりました。毎日、毎日、何千人もの人が私の前を通り過ぎていきましたが誰も気づかない様子。自分は、本当に存在しているのか。それが分からなくなったこと、それが一番つらかった」とタダシさんは言う。

 「もう目が覚めないように」というタダシさんの祈りは、彼が絶望し死を望んでいたことを示しているが、しかし、現実的には野宿になった瞬間、タダシさんは社会的には「死んでいた」のであり、すなわち「抹殺されていた」のだと思う。人は忘れられた時「死」を迎える。それは「社会的死」とでも言うべきものである。人は二度死ぬ。肉体の死、すなわち生命的死と社会的死である。人が生命死を迎えたとしても、誰かに覚え続けられるのならば、その人は生き続ける。そして通常、何十年もの年月の中、徐々に忘れられていき、最後に社会的死を迎える。何十年という年月が経る中で、その人を知っている人自体がいなくなるからだ。よっぽどの「偉人」か「極悪人」でない限り、人々の記憶に留まり続けることはない。

 だが、その順番が破られる場合がある。社会的死が強要された後、それこそ誰に知られることもなく生命死を迎える場合だ。「忘れられる」という深い絶望が人を生命の死へと向かわせる。これは「不自然」であり、人為的な出来事だ。野宿状態の人々が抱える苦難の本質は、経済的困窮(ハウスレス)と同時に社会的孤立(ホームレス)だと言い続けてきたのはこの現実の故だ。

 タダシさんは、その後自立支援住宅(NPOが運営する施設)に入居された。その後、タダシさんはもう祈らなくなった。半年後、地域生活へ移行された。タダシさんは、それと同時に野宿から自立した人々の互助会を立ち上げ会長となった。会の名前は「なかまの会」と命名された。支援は必要だが、常に助けられていることはありがたいがつらいこともでもある。支援する側とされる側が固定化されるのではなく、「お互い様」で支え合う。頼り、頼られる相互的な関係を創ろうということになったのだ。

 タダシさんは、発足総会においてこのように呼びかけた。「この会は『あいそうたい!』で頑張ります。『あい』は、愛し合うということです。『そう』は、創りだすということ。そして『たい』は、体を大切にいつまで元気でと言う意味です。なかまの会は、『愛創体』でやっていきます」と挨拶された。

 「なかまの会」は、あの苦しかった経験が生み出した「必然」であったように思う。ホームレス状態の人にとって、家、食物、お金……それらは当然必要だ。しかし、タダシさんが明確に指摘した「最大の苦悩」は「孤独」であり、「忘れられる」ことであった。だから、人が再出発するには、自分のことを覚えてくれる「なかま」が必要だった。

 イエスは言う。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書四章四節)。パンが必要であることは言うまでもない。しかし、パンがあるから生きていけるというものでもない。「あなたを見えている。あなたに気づいている。あなたのことを愛している」と言う言葉がなければ人は生きていけない。神の言葉とは、その人間の本質的必然を満たすものなのである。考えてみれば、野宿状態というのは、パンもことばもない状態だと言える。それが、どれだけ人間にとって大変な事態であるかは、想像に難くない。

 その後、具体的に聞いたことはないが、タダシさんは祈り続けていると思う。ただし祈りの中身は変わったと思う。タダシさんは「なかまの会」の会長として一人ひとりの会員を「愛、創、体」の思いをもって祈り支えるようになったに違いない。今年、「互助会・なかまの会」の会員は二七〇人を超えた。

以上

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