ニュース

「第2回 プレディガーゼミナール in 北九州」 参加者 二次募集のご案内

東八幡キリスト教会では、昨年から牧師、神学生を対象とした人材育成プロジェクトの一つとして、「プレディガーゼミナール in 北九州」を開催しています。今年は寺園喜基先生を講師にお迎えし、「死」について共に考える時を持ちます。

7月から日本バプテスト連盟の北九州・福岡地区の諸教会や西南学院大神学部、九州バプテスト神学校などに案内、参加者募集を行ってきましたが、まだ定員に若干の空きがあるため、二次募集を行います。

教派、居住地を問いません。参加を希望する方は、以下の案内、開催要項をよく読んで、参加申込を行ってください。

定員が埋まり次第、募集を締め切りますので、お早めにお申込みください。

「 死 ―今日における教会的・神学的意味― 」

栄光在主 地に平和

私たち東八幡キリスト教会は、長年抱いてきた人材育成・牧会者養成の使命を具体化する一つとして、昨年、「第1回 プレディガーゼミナールin北九州」を開催しました。
その研修の場を「プレディガーゼミナール」と呼ぶことにしたのは、ボンヘッファーが大きな危機感をもって牧師養成に取り組んでいた時のドイツの時代状況と、私たちが置かれている現代の日本の状況とに重なるものを感じたからです。詳しくは、以下の設立趣意書をご覧ください。

第1回の昨年は「霊性」をテーマとしました。
霊性という言葉はプロテスタント教会ではあまり用いられません。しかし、混迷する社会の中で、私たちの目には「悪」と見えることも神と無関係には起こっていない、すべては神の支配の下にあり、私たちもその中で生かされているという世界観を持つことは、今の私たちに重要なことなのではないか。そんな問題意識のもとで、このテーマが選ばれました。
特別講師に関田寛雄先生という、長い牧会経験があり、神学者としての深い学識も有しておられる先生が来てくださいました。西南学院と九州バプテスト神学校の神学生3名を含む15名の参加者が、2泊3日で、このテーマについて様々に語り合いました。

第2回となる今年は、「死」をテーマに開催いたします。
人は誰もが死を迎えます。死があるからこそ、限りあるいのちを大切にしようという思いにもなります。人は生きてきたようにしか死なないとも言います。毎週の礼拝こそが死への準備教育だと、私たちの教会の最高齢の教会員は常々おっしゃっています。
実際、教会や牧師は人の生死の場面に関わります。近年、葬儀をしない、あるいはできない人にどう関わるかなど、葬儀の問題が教会でもクローズアップされています。
また、この間、幼い命が虐待で死に追いやられたり、理不尽な事件や事故、また災害で死がもたらされたりといったことが続いています。ニュースにならなくても、本人や周囲の人にとっては受け止めがたい死というものが、私たちの周りで、いや、ただ中でも起こっています。自死の問題しかりです。教会は、牧師は、こうした死に直面して、葬儀で、あるいは礼拝で、何を語るでしょうか。
他方で、死こそが現実の苦しみからの救いをもたらすものだと考える人もいます。様々な苦労を経験して東八幡教会と出会った青年がこう言いました。「すべての人が救われていると言うのなら、私も救ってほしい。私にとっての救いは今すぐ死ぬことです。私にとって現実の社会は『地獄』です。神様が救ってくれるのならば、今すぐに私のいのちを奪ってほしい。私にとってそれが救いです」。重い言葉です。この言葉に、教会は、私たちはどう反論できるでしょうか。
「永遠の生命」について語ったとしても、死がなくなるわけではありません。パウロはローマ書で「罪によって死がはいってきた」、「罪の支払う報酬は死である」と語ります。ルカ福音書のイエスは、事件や事故で殺された人の死とその人の罪とを結びつける考えを強く退けます。人々の日常からはますます人の死、生物の死が隠され、反対にゲームなどバーチャルな死は氾濫している現代社会にあって、教会が死について——具体的な死についても、神が定めたもうたものとしての死についても——語っていくために、私たちは真剣に聖書から学ばなければなりません。
今回も、そのような学びを助けてくださる方として最適な特別講師を迎えることができました。神学者の寺園喜基先生です。
ぜひ「完全に自由で・戦闘準備の出来た牧師の一つの群れ」を創造する営みに加わっていただきたいと願っています。皆様の参加をお待ちしています。

2019年7月7日
東八幡キリスト教会  人材育成プロジェクト

 

 

第2回 プレディガーゼミナールin北九州 開催要項

1.日時 2019827日(火)10時から28日(水)15時まで

2.場所 東八幡キリスト教会  〒8050015 北九州市八幡東区荒生田2-1-40 電話093(651)6669

3.主催 東八幡キリスト教会  協賛 北九州地方連合 宣教支援センター

4.テーマ 「 死 ―今日における教会的・神学的意味― 」

5.対象
北九州地方連合・福岡地方連合内の牧師・主事
西南神学部、九州バプテスト神学校の在学生、ほか

6.定員
牧師・主事 10
神学生    10名  計20

7.発題者
特別講演   寺園喜基 先生
その他はゼミナール参加者の中から立てます。

8.プログラム
前日 8月26日(月)
21時    集合、歓迎前夜祭(実費自己負担)

1日目 8月27日(火)
 9時30分 受付
10時    開会礼拝  オリエンテーション
11時    セッション① (セッションは発題40分・質疑20分)
12時    セッション②
13時    昼食 (教会向かいの抱樸館レストランで450円~)
休憩・自由          ※昼食は自己負担
15時30分 セッション③
16時30分 全体討議①
17時30分 休憩
18時    特別講演  講師:寺園喜基先生
19時30分 会場準備、食事準備
20時    晩さん会
21時    ほろ酔いセッション  テーマ:牧師とは
23時    解散・自由

2日目 8月28日(水)
8時     朝食
9時     セッション④
10時    セッション⑤
11時    セッション⑥
12時    昼食・休憩    ※昼食は自己負担
13時30分 全体討議
14時30分 閉会礼拝
この日の夜は、19時半~21時の東八幡教会の祈祷会に参加することも可。

9.参加費用(教会に宿泊の方はプラス1,000円)
一般      4,000円
神学生     2,000円
特別講演のみ  1,000円

10.申込先
東八幡教会 石橋誠一牧師まで
メール higashiyahata.ch.1955@nifty.com
Fax    093-651-6669

11.その他
○原則として全日程参加とします。
○宿泊が必要な方は東八幡教会にお泊まりいただけます。ご希望の有無をお知らせ下さい。(シャワー完備)
○駐車場に余裕がありませんので、公共交通機関をご利用ください。
(会場は西鉄高速バスいとうづ号 「七条」バス停から徒歩3分です)

 

「プレディガーゼミナールin北九州 設立趣意書」

「キリストの教会は、いつ、どこで、決断の時、告白せねばならぬ時、告白的状況の時に直面するか。これを見分けることを神学の学徒は学ばなければならない。」(ボンヘッファー「神学の学徒は、今日何をすべきか」より)

ナチスが政権を取った1933年秋。ボンヘッファーは、ドイツをひとり離れロンドンへと赴いた。その際、自分が育てた学生たちに「神学の学徒は、今日何を為すべきか」という一文を残した。時代が闇へと向かう中で、教会がキリストの教会として立ち、牧師が語り、行動するためには何が必要なのか、この文章は率直に語っている。

「神学学徒は、このような時代の中で、いたずらに悲憤慷慨すべきではない。むしろ、全く冷静に考え、行動しなければならない。彼はここでこそ、何かやってやろうなどと考えるべきではなく、今まで通りに聖書を読み、学ぶべきである。」

どれだけ厳しい現実が迫ろうとも、神学学徒は、全く冷静に考え、聖書を読み、学ぶべきだとボンヘッファーはいう。しかし、これは状況に対する無関心、あるいは宗教的隠遁生活を勧めているわけでは決してない。政治的事柄と福音的事柄の二元論を是認しているわけでもない。ボンヘッファーは、暴力や混乱を「告白的状況」として捉え、だからこそ、キリスト者は、現状をただ混乱や恐怖と捉えるのではなく、そこにおいて現臨のキリストを見出し、そのキリストを告白し、キリストに服従せよと教える。

「彼(神学の学徒)はこのような時代の中では、次のことを知らなければならない。すなわち彼は教会に対して、また神学の事柄に対して、何かかけひきをもって仕えることは決してできないということである。ただ全く明らかな真理をもって仕えるほかない。最も上手に考えられた戦術的解決でも、煙幕をはり、ヴェールかぶせているにすぎないのだ。彼は、戦術的に考える必要は全くないのである。純粋に事柄に即して神学的に研究を続けるべきなのである。それが彼の奉仕なのである」。

1934年に告白教会が結成され、同年K・バルト起草の「バルメン神学宣言」が採択された。35年にロンドンから帰国したボンヘッファーは、これらの動きに呼応する形でフィンケンヴァルデ牧師研修所を開設した。「フィンケンヴァルデ牧師研修所におけるブルーダーハウス設立に関する提案」には、次のように書かれている。

「将来にまちうけている教会の戦いにおいて、人々の心に決断を促し、また、分離すべきものからの決然たる分離を促すようにみ言葉を宣べ伝えるためには、また次々に起こってくる危急に応じて直ちに宣教の奉仕に出で立つ備えをするめには、完全に自由で・戦闘準備の出来た牧師の一つの群れを必要とする。

そのような牧師たちは、奉仕がもとめられれば、どのような場所にでもおもむく用意がなければならない。同志的な交わりから出て、また再びその中に帰って行く事によって、彼らはそこに、その奉仕のための必要な故郷と交わりを見出だす。修道院的な隠棲ではなくて、外にむかっての奉仕のための最も内的な集中が、その目標である。」

ボンヘッファーは、「完全に自由で・戦闘準備の出来た牧師」養成を目指した。そのための基本的スタンスが「外的奉仕のための内的集中」であった。その後、ドイツがどのような道をたどり、そして、ボンヘッファー自身がどのような最期を迎えたかは、皆の知るところであるが、その熾烈な戦いの日々を支えるために彼らは内的集中を高めた。しかし、それらすべては外的奉仕のためだった。

 

ボンヘッファーやバルトが戦ったあの時代から80年が経った。今、世界は、再び闇へと向かっている。戦争の記憶と罪責感は、世代交代とともに希薄となり、大国は自らのエゴを羞恥心なく披歴している。平和憲法はいよいよ形骸化し、民主主義自体が脅かされる事態となっている。いのちが分断され、障がい者、困窮者、高齢者、性的マイノリティー、外国人などへの容赦なき攻撃が続いている。政治家の倫理は、地に落ち、この国は指導者無き航海を続けている。この緊迫する時代の中で、キリスト者は、牧師は、何を思考し、どう行動するのか。あるいは、何をしないのか。

多くの牧師たちは、教会の高齢化を憂い、礼拝人数と予算の動向に腐心している。しかし、それでいて伝道方策や人間(人数)獲得のノウハウに余念がない牧師は少なく、進みゆく教会の衰退を前に呆然自失状態となっている。結果、福音は、安価な恵みとなり、ますます人々のいのちとは無縁なものとなっている。私たちは、この時代にあって語るべき言葉をどこに見出すことができるのか。

私達は、それを聖書において見出したい。十字架にかけられ復活させられた生ける神のことばに見出したい。しかし、その「ことば」であるイエス・キリストは、人々と共に生き、苦しみ、祈り、そして何より他者のために、しかも悪人のために死なれた方であった。このことばを読む者は、このことばに学ぶものは、このことばに服従させられるという恵みに与ることができる。それゆえに、この恵みは高価な恵みであり、その恵みが高価である故に、与る者たちもまた十字架を伴う道を歩むこととなる。聖書が今日意味することを理解できるのは、十字架の道を歩んだ者なのである。

 

私たちはこれから始まるゼミナールにおいて、「外的奉仕のための内的集中」を実践する。しかし、この両者を二元的に捉えてはならない。外的奉仕と内的集中は、イエス・キリストにおいて一つの事柄であるべきだ。栗林輝夫が「荊冠の神学」において説いた「プラクシスの知」は、まさに「高価な恵み」への服従の中でこそ人は真理に基づく「知」を得ることを明確に示している。

「プラクシス(praxis)は、通常『実践』というように訳されるが、それではこの語に含まれる充分にダイナミックな意味が伝えられていない。というのは部落の解放にかかわるプラクシスとは、すでに出来上がった信仰をもって、差別という抑圧問題に参与していく行動ということではないからである。それは従来の神学や倫理がよく言うような『信仰と実践』『理論と実践』という並列された関わり方で意味される『活動』とか『実践』とかのことではない。そうではなくてプラクシスとは、具体的な解放のわざに参与することのなかで福音の真実が何であるかを考え、そうした過程によって信仰の言葉を新しく確かにしていくプロセスのことであり、次にそうして新しくされた福音の理解をもって、再び解放の仕事に従事するという弁証法的な運動のことである。それは、参与から始まるとともに、新たな参与へと省察を繰り返すことで、神学する試みのことである。」

私達の学びは、栗林が言う「プラクシスの知」でありたいと思う。

 

イエス・キリストが負われた十字架は誰の十字架であったか。この問いこそが「プレディガーゼミナール in北九州」の基調となる問いである。イエスが負われた十字架は、まぎれもなく他者の十字架であった。そのイエスが、今日、この状況において私達を召されている。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」 マルコによる福音書834

「自分の十字架を負って私に従え」とイエスはいう。私にとって、自分の十字架とは何か。いや「誰か」。東八幡キリスト教会が目指すプレディガーゼミナールは、参加する個々人が、その問いに対する自分の答えを見出すために開催される。それが、この闇の時代の一条の光となればと思う。

「自分の十字架を負う」ことは、「自分を捨てる」が伴う。この事実をイエスは正直に容赦なく伝えておられる。平坦な道ではない。しかし、道は続いている。私達は、狭い門をたたき、細い道を見出したい。「完全に自由で・戦闘準備の出来た牧師の一つの群れ」を創造するために。

 

2018年7月1
東八幡キリスト教会

 

【申込票】(Fax 093-651-6669)

第2回 プレディガーゼミナールin北九州 参加申込書

申込日 2019年      

 

(所属)                        教会・伝道所 

(いずれかに○) 牧師/主事 ・ 西南神学部/大学院 ・ 九バプ

 

(お名前)                                  

 

(メールアドレス)                              

 

(昼間連絡先)                                

 

東八幡教会への宿泊希望( 有 ・ 無 )※いずれかに○を

歓迎前夜祭への参加予定( 有 ・ 無 )

 

その他、何か伝えておきたいことがございましたらお書きください。

 

 

 

 

 

 

記入上の注意

(所属先)牧師・主事の方は教会名、神学生の方は学校名・学年をお書きください。

(メールアドレス)PCのメールアドレスをお願いします。

(昼間連絡先)携帯電話をお持ちの方はご記入ください。

 

メールで申し込まれる方は、必要事項を漏れなく入力してください。

ご記入いただいた個人情報は、プレディガーセミナール運営の目的にのみ使用します。

 

第2回プレディガーゼミナールin北九州 2019 案内

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。