社会

9/11巻頭言「助けてと言えるまち―希望のまちをつくる」

(雑誌「暮らし手帖」からエッセイを頼まれたので希望のまちについて書いた。)
 「499人過去最悪」。これは何の数字か。2020年に自殺した子どもの数である。一年は365日しかない。平均すると今日も一人以上の子どもが自らいのちを絶っている。それが私たちの現実である。
数の多さに震える。だが、さらに深刻な現実がある。大人の場合、家庭問題、健康問題、経済問題、男女問題など自殺の要因が明らかなケースが7割を超えている。だが、子どもの場合、「要因不明」が58.4%(文部科学省「問題行動・不登校調査」2018年度)に上る。現象的には、ある日突然子どもが自らいのちを絶っていることになる。当然、理由もなく死ぬ子はいない。自殺は強いられた死だ。死ぬほど苦しんでいたにも拘わらず、誰にも「助けて」と言えなかった。それが子どもの自殺である。
なぜ、子どもたちは「助けて」と言えないのか。様々理由があると思うが、大人が「助けて」と言わないからだと私は考えている。「自己責任」「他人に迷惑をかけてはいけない」。そんなことばかり言ってきた。子どもたちからすると「立派な大人」、「立派な社会人」とは、他人に頼らず一人生きていける人と映っているかも知れない。だがそれは真っ赤な嘘だ。私たちも助けられて生きている。
サルが進化して人間になった。進化とは、より優れた状態になることだ。従来の進化論では、サルは四足歩行だったが人類は二足歩行が出来た。言語を話すことが出来た。これが進化の中身だった。最近、新しい進化論が話題になっている。それはサルと人間の違いは出産にあるというものだ。サルの母親は、あの骨格の形に加え、脳が発達していない分、頭が小さい。だから自分で赤ちゃんを取り上げることが出来た。サルは「ひとりで産む」ことができたのだ。しかし、人間は、直立の骨格に加え、脳が発達して頭が大きくなり、ひとりで産めなくなった。それで人は「取り上げてくれる他者」を必要とした。結果、社会が生まれた。これまでは「出来ないことが出来るようになる」ことが「進化」だった。だが、この場合「出来たことが出来なくなった」のだから「退化」ではないか。否、これこそが「進化」だったのだ。にも拘わらず「ひとりでやれ」と言い続ける私たち。それは「サル化」していることではないか。となると「助けて」は「進化」した人の証しだと言える。
「助けて」でまちを創る。北九州に存在した工藤会という暴力団の本部事務所跡地を「希望のまち」に変える、そんなプロジェクトが現在進行中だ。「助けて」を誰かが聴いてくれる時、人は自分が大事にされていると思える。「自尊感情」である。しかし、それだけではダメで、誰かに「助けて」と言われたら自分は必要とされていると思える。「自己有用感」である。この相互に意味を持つ「助けて」でまちを創る。それが「希望のまち」である。
「希望のまち」のキャッチコピーは、「わたしがいる あなたがいる なんとかなる」。あなたもそんなまちの住民にならないか。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。