「あの日の夜に理事長が来てくれたことは忘れない」。そんなことを時々言われる。こちらはとっくに忘れているが、薬や防寒着を夜中に届けたとか、入院時に見舞いを届けたとか。人は一番しんどい時に出会ったことを忘れない。「すごい支援」をしたわけではない。タイミングの問題だと思う。
先日、東京である団体の責任者の方とお会いした。「希望のまち」への協力を仰ぐためだ。夕方の新宿駅は人であふれていた。食事もままならない一日で、まずは食事をと店に入った。待ち合わせまではまだ時間がある。その後、トイレに立ち寄り、待ち合わせ場所に向かった。そして、気づいた。携帯がない。電車を降りた時、確かに「ピッ」(suica)とやったのでそこまではあった。事情を先方に伝え捜索に来た道を戻る。
食事をした店の店員さんは、全員外国の方で今一つ話が通じない。「三四番の席に座っていたのですが、携帯ありませんでしたか」と尋ねると「ナイヨー」と店員さん。携帯の色やメーカーなど詳しく伝えるが「ナイヨー」。「ナイヨーは無いよ」は僕の内心。
その後、トイレに立ち寄ったビルへ。管理室に行き事情を話す。担当者は「届いてません」と一言。どうしたら良いかと食い下がるが「届いてませんから」と。こちらの不注意でやらかしたのだから誰を責めるわけにはいかない。しかし、人間とは本当にどうしようもないもので、いや、いや、人間のせいにしてはいけない、僕は実につまらん人間で段々腹が立ってくる。「もうちょっと親身になれんのか。君たちはあああ」と言いたくなるが、さすがにこれは大人げない。
粘る僕に「どの階のトイレですか」と担当者が言うので「四階ですが、さっき見ましたがありませんでした」と答える。「ともかく四階を捜したら」との愛のないアドバイスにブチ切れつつも再び四階へ。しきりに出入りしている中年男にトイレの中は妙な雰囲気。藁をもつかむ思いで店員さんに声をかけた。わが娘と同じぐらいか。「あのォォ、携帯落としたようなんですがァァ」。おっかなびっくり尋ねると、「大変でしたね。よかったです。お預かりしています。今、管理室に上げようとしていたところですから取ってきます。白いケースで後ろに変なシールが貼ってある携帯ですね」「そうです。そうです。それです」。地獄に仏とはこのこと。思わず大声で「ありがとう」とお礼を言った。ちなみに変なシールは「重力の光」のシールでイエス様役の菊ちゃんがロバのぬいぐるみにまたがっているやつ。確かに変。
私はあの日のことを忘れない。携帯依存の現代人にとって、それを無くすと大変になる。出張はあと二日残っており携帯がないと仕事にならない。ただ、携帯が見つかったから良かったのではない。それもあるが、店員さんの「大変でしたね」にグッときたのだ。本当に大変だったし、心細かったからだ。「ナイヨー」じゃなく「大変だね。でも、ナイヨー」って言って欲しかった。「大変でしたね。残念ながら届いていません」と言って欲しかった。自業自得は百も承知でそれを求めるのは「甘え」だろうか。
抱樸の活動は訪ねることが基本。昨夜のパトロールもそうだ。それは困窮者の発見という事のみならず、一番しんどい時に出会うということに意味がある。そして「大変でしたね」と声をかけるのだ。そのひとことに「なんとかなる」と人は思える。聖書が言う「光は闇の中に輝く」(ヨハネ福音書一章)は、そういうことを意味していると思う。
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