信仰

8/25巻頭言「台風の日の祈り」

 台風10号が日本列島に向かっている。この後も次々に台風が発生するという。発達しながらこちらに来る台風の進路を見ながら心配が募る。テレビでは「来週は外出を控えてください」などと言っている。被害が出ないことを祈る…そこまでは良い。
 しかし、僕のような小心者は、台風が大きく強力になるつれ「こっちに来るな」「あっちに行け」と祈ってしまう。情けないが事実だ。台風が日本に来ず中国大陸に向かってくれると「よかった」と思う。これって「良かった」なのか。「あっち」にも現に人は暮らしている。「あっちの人は大変だろうな」とせめて想像したい。「あっちの人に被害が出ませんように」と祈りたい。
 じゃあ、いっそのこと「台風なんか消えてなくなれ」と祈るとするか。そう単純でもない。「台風が来ないと水不足になる」「台風がくることで海水がかき回され海が活性化する」という事も聞く。そこで「被害が出ない程度、つまり『恵みの雨を感謝します』と祈れる程度の台風を適度な間隔を空けて、しかもあまり極端な雨の降り方、特に『線状降水帯』など聞きなれないのは結構ですから、神様、そこのところ何卒よろしくお願い申し上げます」と祈る。いずれにせよ大切なのは「あっちにも人がいる」という事実を踏まえることだ。
 今年の猛暑はひどかった。熱中症警戒アラートが毎日鳴り、テレビでは「いのちに関わる猛暑です。できるだけ外出は控えてください。エアコンはつけたままに」と呼びかけが続いている。確かにいのちに関わる暑さだ。しかし「そういうこと」ができない人もいる。そもそも家もなく路上で暮らす人々は「毎日外出」状態。「控えてください」と言われてもねえ。第一エアコンもないし。家で暮らしていたとしても必ずエアコンがあるとは限らない。あったとしても「電気代」を考えると「つけっぱなし」が出来ない人もいる。私とは違う人がおり、違う事情や環境の中で暮らしている。「僕の当たり前」が通用するとは限らない。
 「教養はものを識(し)ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである。それがいわば日本風の教養の定義なのであろう」。これは養老孟司さんの言葉である。あまりものは識らずとも「教養人」でありたいと思う。「台風の日の祈り」は、特に「教養」が問われる。猛暑日のニュースを「教養」を持って聞きたい。
 イエスが教えた「主の祈り」は「天にましますわれらの父よ」から始まる。一貫して主語は「われら」。「われらの日用の糧を与えたまえ」。「われらの罪を赦したまえ」。「われらを悪より救い出したまえ」。この祈りは僕らの「教養」を問う。「私の食べ物」「私の罪」「私を救え」。そういう「自分だけ」の無教養の祈りでいいのかと。この「われら」って誰のことだろう。それを考えるのが「主の祈り」を祈るということだ。そして、それこそが「台風の日の祈り」でもある。
 益々発達する10号台風。僕は「あっちに行って」と思いつつ、「あっちの人もこっちの人も守りたまえ」と祈ろうと思う。

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