社会

7/28巻頭言 「やまゆり園事件から3年―いのちに意味があるで、ダメか」

やまゆり園事件から3年が過ぎた。「障害者は生きる意味がない」と、死亡19人を含む45人が殺傷された。犯人の青年は当該施設の元職員だった。彼は、ことばで意思疎通ができない人を「心失者(心を失っている人)」と言う。「心失者は・生きる意味のない」と断言したのだ。滅茶苦茶だ。
先日、犯人の「論理」に「彼は頭が悪いですね」と一括した人と出会った。「どういうことですか」とお尋ねすると「現代の最先端技術を用いると言葉が無くてもコミュニケーションできるわけですから、彼はそういうことを全然勉強しないで言っているに過ぎません」という趣旨の答えが返ってきた。「先端技術」のことはよくわからない。その方の言うことも事実なのだろうと思う。福祉の父と呼ばれた糸賀一雄は、知的障害のある子どもたちの「発達保障」を訴えた。この世に発達しないものなど無いと糸賀は言う。糸賀から50年が過ぎた今日、技術革新も伴い「発達」の事実がより詳細に証明されるようになった。だから「言葉が無くてもコミュニケーションできる」という、あの方の言葉は事実なのだ。
だが、それだけで本当にいいのか。「どんな人でもコミュニケーションできるのです。だから、あなたの言っていることは嘘っぱちです」と犯人に言うことはできる。しかし、本当にコミュニケーションできない人、あるいは今の技術ではそのことが証明できない人はどうなるだろうか。
「頭が悪い」と発言した方に「どうであれコミュニケーションが取れることが『どうでもいいいのちではない』ことの理由であるならば、どうであれ『コミュニケイトできる』ことが必要となる。でも、もし『できない』人がいたら、やはり『意味のないいのちは殺す』ということにならないか。いのちが大事と言い切らないといけない」と反論した。科学技術の進歩も重要だが、それで左右される「いのちの意味」で良いのか。すると「そういう神学議論はダメです」と言われてしまった。
「いのち」という普遍的価値に立たなければいけない。「実は、コミュニケーションは取れています。だから意味があるのです」と言うのは、その後だ。神学であろうが、科学であろうがどうでもいい。「いのちに意味がある」「生きることに意味がある」と言い切れない社会が問題なのだ。
確かに、それは「神学」、いや「信仰」なのかも知れない。「信じる者は救われる」のだ。だが、この「信仰義認」という考え方も、「信じることが出来れば救われる」というのではなく、律法主義、すなわち「~出来たら救われる」と考えていた時代に「信じるだけでいい」と言い抜いたのであり、つまり「何もできなくても救われている」ということを意味する。それでいいと思うのだが、ダメか。

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