では、私達が想像すべき「他者」とは誰か。それは医療従事者のみならず、ステイホームできないすべての人である。エッセンシャルワーカーなどアウトホームで働いている人々がいるから「ステイホーム」は成立する。全国民が「ステイホーム」すると全滅してしまう。「助ける人」がいないと「ステイホーム」すらできない。東京都は、今年のゴールデンウイークを「いのちを守るステイホーム週間」と位置付けた。だが、ステイホームだけで人が助かるか。そんなことはない。ステイホームは、アウトホームによって成立している。コロナ禍は、そんな当たり前のことを私達に思い出させてくれた。
4、結局人が人を支える―相談支援と「助けてと言える社会」
「ソーシャルディスタンス」は「相談」ということを困難にした。そもそも「助けて」と言えない社会となっており、相談すること自体が難しかったところに、コロナが来たのだ。
抱樸の行う「伴走型支援」は、「人が人を支える」という当たり前のことを前提としている。今、この「当たり前」が困難になった。「感染防止上、対面支援は禁止」。これは不可能に近い。先に述べたように「孤立」が進行していた日本社会において、それは致命傷になりかねない。政府は補正予算を編成し「給付」を強化した。10万円の特別給付金、住居確保給付金、持続化給付金、雇用調整助成金、さらに緊急小口貸付など、「遅い」と言われつつもリーマンショック時とは比べものにならない予算が組まれた。ほとんどの財源は「国債」。この「借金」はいずれ国民に課せられることになるが、急場を乗り切るためには破格の財政出動は致し方ない。
しかし、私が心配するのは、その「財政出動」が本当に有効に使われるための「もう一つの要素」が決定的に欠けているということである。それが「相談支援」であり、それを受けてくれる「人」の確保である。 早稲田大学の法学部教授の菊池馨実さんは、近著『社会福祉再考―<地域>で支える―』(岩波新書)において、今後の社会保障において欠くべからざる要素として「手続き的給付」という概念を提示している。厚労省の審議会でご一緒させていただいた敬愛する学者のお一人である菊池さんは、これまで社会保障の目的は、生活保障であり所得の再分配だとして、憲法二五条「生存権」がその根拠だったと言う。ゆえに、金銭、現物、サービスを国が個人に給付することが社会保障の役割であった。その重要性を認めつつも、それは手段に過ぎない。社会保障の真の目的は、「個人の自律(autonomy)」であり「個人が人格的に自律した存在として主体的にみずからの生き方を追求しいくことを可能にするための条件整備」こそが社会保障だと彼は言う。その上で「自律」とは、個人が自らの物語を紡ぐことが出来ることだとした。これまで社会保障の議論ではないがしろにされてきた視点が明確に示された。抱樸の伴走型支援においても「物語化」は中心的な概念である。人間を保護されるべき「客体」と捉えるのではなく「主体」として捉え、その「自律性」を支援の中心に置く。憲法二五条生存権と共に一三条「個人の尊重」、「幸福追求」が重要になる。
つづく
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