「希望のまち」が行き詰っている。2019年暮れにスタートしたプロジェクトは、2024年4月建築入札にたどり着いた。ここまでに5年近くの歳月が流れた。
振り返ると「まさか」の連続だった。計画スタート直後、世界はコロナパンデミックに見舞われた。ソーシャルディスタンスなど聞きなれない言葉と共に生活は一変した。次に戦争が始まった。終わりの見えない闇は今も続いている。円安が急激に進み物価(資材)高騰は私たちの生活を直撃。数々の予想外の出来事が押し寄せたが計画は止まることは無かった。
そんな中、対応を迫られた。四階建て総工費10億円の計画を3階建に変更。規模を縮小しても予算は3割上がった。当初の10億円でも足が竦(すく)んだが23億円を超える計画に「大丈夫か俺」と思った。しかし、全国から届けられた寄付は3億円を超え、土地取得の寄付を合わせると総額は4億円となった。日本財団が5億円の助成を決めてくださり、不足分は地元金融機関が融資で支えた。「やれ!」と背中を押されている思いがした。
そして入札。しかし、入札は不落(不成立)。入札で明らかになった差額は「何とかします」と言える範囲を超えていた。応援いただいた方々の顔が浮んだ。申し訳ない思い。
あれから一か月。「なんとかなる」と思えた直後に「大丈夫か」と思う。乱高下する気持ちに少々疲れをおぼえる。よろしくない夢にうなされ、早朝に目が覚める(これは加齢かも)。それでもさらなる設計変更と寄付に向けた話し合いを続けている。
問われるのは「真理契機」。この計画が「真理(本当に大切なこと)」に根拠を置き、それに拠って立つものであるかが問われている。「真理」に基づく必然性と普遍性がないと僕や抱樸が大騒ぎしてもこの計画は頓挫する。責任者としての焦りはあるが僕はそれに拠り頼む。
カトリック教会に伝わる祈りがある(『アシジのフランシスコの祈り』とされてきたが事実ではないらしい)。「神よ、わたしをあなたの平和の『道具』としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを『もたらすもの』としてください。」「道具」という表現は好きではないが、この祈りが示すのは「平和を創る主体は神である」という事だ。人はそれを進める「道具(器)」「もたらすもの」に過ぎない。「神」というのが宗教的過ぎるなら、背後にある「大いなる意思」と言っても良い。その「意思」が僕らを動かす。
「奥田さんがいつも楽観的に見えるから周りの緊張感が足らないのではないか」。不落の事態を心配してくだった方がそう言われた。「いやいや内心は穏やかではないのです」と言いたいが、確かに言われた通りかも知れないと思った。この計画が誰か個人の自己実現のためではなく、この社会が抱える深刻な事態に挑む「大いなる意思」に拠るものだと信じている。僕らはその「器(道具)」なのだ。「楽観的」に見えるのはこのためだ。無責任な言い方かも知れないが、そうでないとこんなとんでもないプロジェクトをやる勇気はない。「大いなる意思」がやっているのだから僕らが勝手に「あきらめる」とも言えない。だから最後は「なんとかなる」。
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