社会

7/31巻頭言「答えのない宿題-やまゆり園事件から6年 その①」

(幻冬舎の「やまゆり園事件」が文庫化されるにあたり、あとがきを依頼された。以下はその原稿)
先日、ある高校で講演をした。「『ひとりのいのちは地球より重い』。このことばを知っている人はいますか」との問い二人が手を挙げた。会場には数百人の高校生がいたのだが。「継承されていない」。私は、少々気落ちしつつ話を始めた。テーマは「生きることに意味がある―やまゆり園事件を考える」であった。
1977年ダッカ国際空港でハイジャック事件が起こった。当時の首相福田赳夫は乗客のいのちを優先するため、身代金、国外逃亡(超法規的措置)など犯人の要求を受け入れた。結果、乗員乗客全員が無事解放された。当時も「テロリストとは交渉しない」ことが国際社会の常識だった。しかし、福田はこの決断をした。中学生だった私には「いい国だ」と思えた。
しかし、このことば継承されなかったのだ。それは、「言わずもがなの当たり前」となったからか。それとも「そんなきれいごとを言っても実際にはいのちには格差がある」という現実に多くの人が気づいたからか。いずれにせよ、このことばが遥かに忘れた頃、やまゆり園事件は起こった。
事件の犯人である植松聖は「意味のないいのち」と断じた人々を殺傷した。当初、私はあまりの凶行に驚愕しつつも「訳が分からない」という印象を持った。「死刑になりたかった」「誰でも良かった」など、理解しがたい事件は現に起り続けている(これらの事件にしても、それぞれの背景があるのだが・・・)。しかし、その後の報道で、これは「確信犯」であることを知った。「確信犯」は「悪いとわかっていて行われる犯行」との意味で使われることが多いが、それは本意ではない。「確信犯」は、「正しい事、意味のある事をしていると確信してなされる犯行」のことだ。
言葉でコミュニケーションが取れない人を「心失者」と呼び、「障害者は不幸しかつくらない」、「生産性が低い」、「意味がない」と植松は言う。そして、「障害者を殺すことこそが正しく、社会の役に立つ公益」だと彼は確信したのだ。
その「彼の確信」は、何に裏付けられているのか。どこから来たのか。私は長くホームレス状態にある人々の支援をしてきた。その中で彼ほどではないが、「その線上にある発言」をしばしば聞かされてきた。支援施設を開所する度に住民反対運動に晒された。反対署名には「生産性の低い施設に反対」と書かれていた。
あるホームレスの親父さんは私にこう語られた。「僕は寝る前に毎晩祈っています」。牧師である私は少々期待しつつ「あなたはクリスチャンですか」と尋ねた。すると「いや、寝る前に二度と目が覚めませんようにと祈るんです」と静かに答えられた。野宿は人を「死の渇望」へと誘う。なんども反対を押し切り施設を開所してきた。すると「死」を祈らざるを得なかった人がそれを利用し、生きることへ、働くことへと歩み出す。それこそが何よりも「生産性が高い」ことだと私には思えた。

つづく

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