生きる

7/21巻頭言「ウンチを踏んだ夜―対話ではないが対話的ではある」

 「対話」はお互いが「対話したい」と思っていないと成立しない。「相談」は「相談したい」と本人が思って相談窓口に来られるから成立しやすい。しかし、人が「相談する気」になるには、つまり「もう一度立ち上がろう」と動機づけてくれるのには「他者」との関わりが必要だ。まずは「対話」が成り立たないといけない。
 ホームレス状態の方への炊き出しで、お弁当を届けても全く反応しない人がいた。その親父さんは、話しかけても返事もしない。当然「ありがとう」などと言われない。「対話」が成り立たないまま数年が過ぎた。
 その日もお弁当を持って「無反応」のその方を訪ねた。「こんばんは。お弁当持ってきました」。「シーン」。いつものように弁当を置いて帰ろうとした、その時。その人が寝ていたのは公園の片隅で昼でも薄暗いその場所は夜ともなると真っ暗闇になる。僕は足の裏に「ぐにゅ」っと嫌な感触を感じた。「ええええ」と思い確かめると僕の靴の下に立派な「犬のウンチ」があった。「ああああウンチ踏んだ」と思わず叫んだ。その瞬間、あれほど無視を続けてきた親父さんが「フっ」と声をだされた。笑ったのか、同情したのか、あるいは「バカだな」と思われたのか。それはわからないが彼は確かに「ウンチを踏んだ僕」に反応した。「あああ、この人は僕のことを見ていたのだ。僕はちゃんと認識されていた」と思えた。「対話」は成立していない。だが「対話的」なことがそこにはあった。どんな形であれ「つながって」いたのだ。僕はなんとも言えない喜びに包まれウンチに「ありがとう」と言いたくなった。
 「対話」は大切だが、それを「ことばのやり取り」に限定して考えると少々重い。「ことば」は「近代的」であり「理性」や「知性」が問われる。だが「ことば」にならずとも「つながっている」ことはある。「対話」は成立しなくても「対話的な関係」は成立する。「対話」と「対話的」は違う。「対話」は実際に「ことば」をやり取りすることだが「対話的」は「ことば」をやり取りせずとも成り立つ。「非言語的(ノンバーバル)」であれ、実際「つながっている」ということはあるのだ。あの日、ウンチを踏んだあの瞬間に「つながっていた」ことが判明したように。
 「つながれない」。「つながっていない」。そんな風に思わざるを得ない時がある。拒否されることもある。だが、それもまた「つながっている」ことなのかも知れない。案外向こうはこっちのことをちゃんと見ている。だから早々にあきらめることはできない。
 ともかくこちらが「つながっていたい」と思うことが重要だ。だから通い続ける。その内に「ウンチの日」がやってくる。そんな「事件」をきっかけに「対話的」な関係が存在することが判明したりする。「対話」にはならないが「対話的」であることはある。ウンチも踏んでみるものだとつくづく思う。

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