社会

6/11巻頭言「涙が出るほど学ぶ」  西日本新聞エッセイ その㉔

(西日本新聞でエッセイを書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
東八幡教会では毎春、子どもたちと平和の旅に出かける。長崎、広島、沖縄の順でかれこれ25年程続いている。
沖縄の旅でお世話になるのが平良修牧師。子どもに「まっすぐ」向き合い話される。「みなさん、なぜ、沖縄に来られたのですか」「戦争のことを学ぶためです」(フムフム予習がちゃんとできている)。「そうですか。戦争のことを学ぶのに、なぜわざわざ沖縄に来るのですか。福岡では戦争のことを学ぶことができないのですか」。子どもたちはキョトンとして聴いている。「戦争のことが本当にわかるためにはどうすればいいでしょうか」。子ども沈黙。「いい方法を教えます。それはもう一度戦争をすることです。自分自身戦争を体験すると戦争がよく解りますよ」。子どもたちは沈黙を通りこして「この爺さんなに言ってんだ」という顔。このショッキングなやり取りから先生の話しは毎度始まる。
「でも、それはできないよね。だから戦争を体験した場所に行って戦争を体験した人の話しを聴くしかない。沖縄は住民を巻き込んだ唯一の地上戦が行われた場所です。キチンと学んで欲しい。皆さんには涙が出るほど学んで欲しいのです。」子どもたちはペンを握りしめメモを取り始める。
平和資料館で資料を読む。読む、読む、読む。胸が詰まる。気分が悪くなるような事実がそこにはある。でも涙は出ない。僕が鈍感だからか。先生が言う「涙が出るほど学ぶ」とはどういうことなのか。
教育学者の林竹二は「学ぶということは絶えず自分をつくり変えていくこと。ものの見方、考え方、生き方が変わるということだ」という主旨の事を言っている。「学ぶことは変わること」だとすると涙は悲惨な住民への同情の涙であってはならない。自分の無知を恥じる涙であり、これまでの自分に対する離別の涙なのだと思う。
昨年は沖縄復帰50年だった。今日も辺野古では基地建設が絶え間なく続いている。僕は学んでいるか。僕は変わろうとしているか。そして僕は泣いているか。

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