牧師は、ことばを生業(なりわい)にしている。それが「風呂屋の釜」、すなわち「湯(言う)だけ」で終わったらいけないが、実行できずとも牧師は「ことば」を語る。30年以上聖書から語っているが正直良く解らない。その時、その時で読み方が変わる。「それは奥田の恣意的解釈だ」と言われても否定できない。確かにそうだ。神様ご自身が直接語られる以外、僕のような俗物を介して聖書を読もうとすると限界がある。どれだけ分かり易く話せたとしてもそれは「答え」ではない。
ことばには、「意味の明確化」あるいは「解明」という役割ある。学問は事柄の原因を見つけ出し、なぜそのような結果に至るのかを解明し「ことば」にする作業だと思う。牧師の話も、聞いて下さる個々人が抱える悩み事や問題をどう理解したらいいのか、それをどう受け止めたらいいのかに対して何らかの「示唆」を与える「ことば」だと言える。
だが、それは「人生の答え」というものではない。毎週の宣教は、一週間を生き抜くための「ことば」に過ぎない。「人生の目的」や「世界の真理」が解ることはまずない。弁解のように聞こえるが正直な気持ちだ。話している本人が「人生の答え」に迷っているのだから。
世界も人生も「不可思議」に満ちている。聖書には、確かにそれに対する答えが書かれている。だが、それは「隠されている」。期待を裏切るようで申し訳ないが、牧師が何か人々の知らない世界の秘密を知っているわけではない。「真理を知っている」という牧師が居られても良いがカルト化する恐れがないか心配だ。「『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ9章)とのイエスの言葉を思い出す。
追求すればするほど世界も人生も「解らない」ことだらけだ。それを「頼りない」と思うか、あるいは「だから豊かだ」と思うか。その違いは大きい。僕は「だから面白い」と思いたい。となると「ことば」は、答えというより、「問い」のために存在していることになる。「問い」が多いほど、人生は不可思議になり、だから豊かで、奥が深く、面白くなる。第一答えを出せないのだから、簡単に「あの人は駄目だ」とか言えない。自分に対しても、他者に対しても答え(判決)を留保するしかない。それが「問いとしてのことば」を大事にするということだ。「ことば」とは、最後まで分からないことを引き受けるための器であり、牧師の「ことば」も、時々解ったようなことを言うが、結局は「解らない」という現実の深みと豊かさ、すなわち「神様」に連れ戻すためのものだ。「わからないことを宿す場所」。それが「ことば」だと思う。
だんだんと何を書いているのか解らなくなってきた。読んでいるあなたも「奥田は何が言いたいのか解らない」と思われているだろう。これで終わりにするが、世界も人生も、そして何より「いのち」は不可思議で満ちている。「意味がある」とか、「意味が無いとか」、簡単に言って欲しくない。解られたら困る。そんな「いのち」の不思議をことばにする。そんな「ことば」を生業とするのが牧師さんだと思う。
おわり
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