生きる

4/14巻頭言「今も時々思う―問いの中に生きる その①」

 NPO法人の専務である森松さんの母上が急逝された。とりあえず森松さんの故郷である沖縄に向うことにした。僕の親父の時は、森松さんが滋賀まで来てくれた。日帰りで押しかけると迷惑かも知れない。でも行こうと思った。享年93歳。ずいぶん前にお会いしたきりで、最近はすっかりご無沙汰していた。長く離れて暮らしていたとは言え、実際にもう会えないとなると寂しい。「もっとこうしてやったら」、「ああしてやったら」。息子としては思いもいろいろあるだろう。心残りは縁(えにし)の証し。ともかくしょげている森松さんの顔を見て一緒にお祈りしよう。そんな行きの飛行機の中、僕は親父が死んだ時のことを思い出していた。

 親父(オヤジ)が死んで七年になる。シベリヤ抑留から生還し、その後大学、就職、結婚。典型的な中間層サラリーマン家庭に僕は育った。親父が四〇歳の時に僕が生まれた。クラスで親父が戦争に行っていたのは僕ぐらいだった。小柄な親父は大体静かな人だった。そんな人がたまにつまらない(本当につまらない)冗談を言ったりする。江州弁(滋賀県)でこういう人を「ちょか」と言う。「落ち着きがない人を注意・揶揄する時などに使うことば」だ。「静かな親父」と「ちょか親父」。そのギャップが子どもの僕にとって不思議だったが、大好きだった。

 親父の最期の日々は病院暮らしだった。以前大腸ガン、しかも相当進行したガンを患ったことがあった。さすがに「これはダメかも」と兄貴と言っていた。だが手術は成功。親父はその後10年程元気に過ごしていた。

 最後の入院となる直前。90歳になった親父は「さすがに今回で最後」と言いつつ夫婦で九州まで来てくれた。新しくなった教会を見たいと。「軒の教会」を見て親父は喜んでくれた。小柄だった親父がもう一回り小さくなっていた。しかし食欲もあり一緒に盃を酌み交わした。ほろ酔いの親父はやはり「ちょか」をかましていた。

 九州から戻って数か月後、親父は倒れた。病い自体は大したことはなかったが入院中に「誤嚥(えん)性肺炎」(食べたものが間違って肺に入り肺炎になる)を起こした。退院できない日々が続いた。「絶飲食」と書かれた札がベッドの上に掲げられていた。少し調子が良くなると再び肺炎を起こす。「胃ろう」は作らず、タイミングを計り鼻からの管を通じて胃に栄養を入れる。だが、これが逆流し肺炎を繰り返す。皮下注射の栄養補給も加わったが「絶飲食」は続いた。

 頻繁に九州から見舞いに行くことはできなかったが、それでも仕事の合間を縫って親父が入院する病院に向かう。かつて僕もお世話になったその病院は建て替わり新しくきれいになっていた。親父はやせ細り皮膚はカサカサになっていたが、頭はしっかりしていてベッドで欠かさず新聞を読んでいた。         (つづく)

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。