社会

3/22巻頭言「無くなったのはトイレットペーパーではありません」その2

大切なのは、人と人が出会うということにおいては、「つらくて苦しい」ことが大なり小なり起こるということだ。これを回避して「自分だけ」を生きるか、あるいは少々しんどくても共に生きるか。灰谷は、それが人間と動物との違いだという。
私達は、このままだと「人」でなくなってしまうのではないか。「自分の中に誰もいない」のは、もはや人とは言えないと灰谷は言うのだ。
■ある講演会にて―人とは何か
ある講演会で話をしていた。一人の女性が手を挙げられた。
「毎日、会社の行き帰りの時、駅でホームレスのお年寄りを見かけます。『大丈夫ですか』と声をかけてあげたいのですが、できません。どうしたらいいでしょうか」
質問の意図をはかりかねて、「声をかけてあげたらいいと思いますよ。きっと喜ばれます」と、ともかく答えた。すると彼女は、「いえ、どうしても声をかけられないんです。ボーナスをもらった日など、お弁当のひとつでも買ってあげたいと思うのですが、どうしてもできません」と仰る。心優しい女性ではないか。
けれども、そのあと思いがけぬ一言が飛び出す。「もし、声をかけると家までついて来るんじゃないかと心配で」
私は、少し呆れつつ「そんな人はいませんよ。安心して声をかけてください」というのが精一杯だった。しかし、そう答えつつも、彼女の言っていることは「実はその通り」と私は感じていた。それは、人が出会うということは、容易ならざる事態であることを少なからず体験してきたからだ。人は、出会うとそのままの自分でいることが出来なくなる。「知ること」は変化を及ぼすからだ。かつて、教育学者の林竹二は、「学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである」(『学ぶということ』国土社 95頁)と言った。林は、出会いの本質をも言い当てている。
私達は、出会うことで「変化を余儀なくされる」。林は、「学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終ることのない過程に一歩ふみこむことである」とも言うが、それが彼女には不安なのだ。 彼女が心配した「ついてくる」は現実なのだ。物理的にはついてこないが、本質的には家までいついてきてしまう。出会うと私の中に「その人が生き始める」ということだ。雨が降る。それまでは何とも思っていないが、出会ってからは「おじさんどうしているかな」と考えてしまう。お弁当を渡す。翌日、やはり前を通る。おじさんは何も言わないが「お弁当、今日はないの」と問われたように感じてしまう。そこまで責任を感じる必要はないと言えば、そうなのだが、出会うとその人との対話が始まる。これは正直しんどい。
つづく

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