社会

3/7巻頭言「光は闇の中に輝く―コロナの中で考えたこと その④」

(カトリックの雑誌「福音宣教」12月号に寄稿しました。)
私たちは、この間「自分でやれ」「自己責任だ」「他人に迷惑をかけるな」と言い続けてきた。「ステイホーム」においては、自分のいのちは自分で守ると考えた。しかし、そういう現代人の在り方は「サル化」しているとも言える。世界は猿の惑星になりつつある。コロナは、聖書や進化論が指摘する「人間の本質」を私たちに示してくれたと思う。つまり、ひとりでは生きていけないということを。政府は「まずは自助で」と訴えている。自助は大事だ。だが、自助が成立するためには、「まわりも全力で助けるから君自身もがんばれ」と言わねばならない。共助と公助を前提として自助は成立する。それが人間の社会だ。
三、いのち優先―過労死の国で
海外でも通じる日本語がある。その代表が「過労死」で、日本独自の現象だとされる。人は幸せになるために働くと考える海外の人々にとって、働き過ぎで死ぬという事態は理解できない。あるいは学校もしかりで、幸せになるために人は学ぶ。だが、学校に行くと死にたくなる子どもが大勢いる。会社も学校も生きるために存在するにも関わらず、私たちはいのちよりも仕事や学校を優先してしまった。
そこにコロナがやってきた。感染、重症化、死という現実を前に皆が「ビビった」。結果、通勤することを控えた。学校は休校となり「いのち優先」と言う「当たり前」が確認された。やればできると私には思えた。
1977年、日航機がハイジャックされた。犯人は身代金や仲間の釈放などを突きつけた。総理大臣福田赳夫は、人命を優先し犯人の要求にすべて応え人質を取り戻す。その理由として福田が「ひとりのいのちは地球より重い」と発言。中学生だった私は、この発言に感銘を受けた。
先日、ある高校での講演の折、この発言について問うと数百人いた生徒の内、これを知る者は数名だった。この言葉は引き継がれていない。なぜか。「そんな当たり前のことは言わずもがな」ということか。それとも「そんなきれいごとを言っても実際は大事にされるいのちとそうではないいのちがある」という現実を彼らは知ってしまったからか。残念ながら後者だと思う。
2019年9月、台風19号が首都圏を直撃した。テレビでは「いのちを守る最大限の努力」が呼びかけられていた。その最中、東京都台東区の避難所に向かったホームレスが「区民ではない」を理由に入所を断られた。後日、旅行者や外国人は受け入れていたことが判明。区長が謝罪する事態となった。子どもたちは、このような大人社会の現実を日々見せられている。

つづく

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