エッセイ

3/14「光は闇の中に輝く―コロナの中で考えたこと 最終回」

(カトリックの雑誌「福音宣教」12月号に寄稿しました。)
WHOによってパンデミック宣言された3月。2016年に起こった津久井やまゆり園事件の判決が出た。「障害者は意味のないいのち」だと元職員の青年による犯行だった。19人が惨殺され26人が負傷した。彼は、「生産性」の低い障害者を殺すことは「公益だ」と言った。「意味のあるいのち」と「意味のないいのち」があると青年は言う。違う、「いのちに意味がある」のだ。
「生きることに意味がある」と言い切らないまま過ごしてきた私たちだが、コロナ禍によるいのちの危機が迫る中、何を優先すべきかが問われた。「いのち」である。私たちは今一度声に出して言わねばならない。「いのちは地球より重い」と。
この間「不要不急」を控えることを心掛けた。それは「何が必要で、何が急いででもやるべきことか」を問われた日々でもあった。イエスは言う。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだ」(ルカ福音書10章 口語訳)。無くてならぬただ一つのこととは何か。コロナは、私たちがその問いにどう答えるかを試している。
四、おわりに―希望のまちプロジェクト
東八幡教会は、信仰的宣言、いや抵抗のことばとして「神様はどうでもいいいのちをお創りになるほどお暇ではない」と礼拝の度ごとに司会者が宣言する。既に4年間続いている(礼拝はYouTubeチャンネル東八幡教会―星の下で配信中)。教会が担う福音宣教とは、この宣言であり、宣言を受肉化することだと思う。
コロナ禍は、今後さらに深刻な事態となる。各種の給付金は2021年3月には終了する。仕事も家も失う人が増えることは避けがたく、NPO法人抱樸では、それに備えるために就労を含む支援付きのアパート二五室を確保し、すでに一八人が入居した。
さらに、NPO法人抱樸では、どんなに困っても逃げ込める「まち」を創ることを計画している。北九州には、工藤会連合という特定危険指定暴力団が存在する。6年前、暴力追放運動に市民が立ち上がり、2020年春、本部事務所が解体された。だが暴力団自体は、まだ存在しており、跡地の活用は難航した。そこで、NPO法人抱樸がそれを引き受けることとした。土地代だけでも1億3,000万円が必要だったが、地元銀行から一旦お借りできた。二年以内の借金返済が迫っている。北九州は「怖いまち」と言われて久しい。抱樸は「怖いまち」を「希望のまち」へと変える。「希望のまち」は「助けてと言えるまち」。「だれひとり取り残されないまち」。「ひとりにしないまち」。「希望のまち」は、「どうでもいいいのち」と言わざるを得ない子どもたちがたどり着く最後の砦となる。
コロナはしんどいが、一方で私たちに何が大切かを問うたものだった。長年ないがしろにしてきたこの問いに答えることがポストコロナを考えることになる。
「希望のまち」を創りたい。是非、祈り、支えていただきたい。

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