平和

3/13巻頭言「貧しさとさびしさの果てに」

私は「貧困との闘い」は「平和獲得の活動」だと考えてきました。どんなに国のリーダーが「戦争するぞ」と言ったとしても、彼ら自身は戦場には行かないわけです。じゃあ、誰が戦場に行くのか。それは「民衆」であり「若者」であるわけです。今回の戦争において戦場で殺し合っているのは、兵士です。結局はロシアの軍隊として派遣されているのは「ロシアの若者」です。
しかし、一体誰が戦場に行きたいと思うでしょうか。誰がそんな恐ろしい場所に行くでしょうか。「できれば行きたくない」。それが本音だと思います。でも、それでは戦争は出来ない。どんなに兵器開発が進んだとしても最後は陸軍の部隊が侵攻するわけです。今回もそうでした。それは歩兵と呼ばれる人間です。
「行きたくない場所に人を行かせるために人はどうしたら良いか」。国のリーダーはそれを考えています。人はどういう時に戦場に行かざるを得ないのか?
「戦場に行きたい」と思う人はいないと思うんです。第一私は行きたくない。にもかかわらずなぜ人は戦場に向かうのか。本当にざっくりとした言い方ですが、その理由は二つあると思います。一つは「貧しさ」、もう一つが「さびしさ」です。食えないという現実が戦場に人を向かわせる。命がけで働かないと食えない。貧困が人を戦場に向かわせるとするのなら、貧困や経済的困窮をいかにして解消するかが勝負になります。
もう一つの「さびしさ」ですが、人は誰しも居場所と出番を求めると言うことです。自分は不要な存在ではないか。孤立状態にある人、若者の多くがそんな存在の不安を抱えています。自分が必要とされ、認められる。何よりも褒めてもらえる。それを求めるのは、決して悪いことではない。いや、人は独りでは生きてはいけないと言う理由そのものです。人は他者との関わりで生きる意味を見出すことが出来る。しかし、その他者に恵まれない、そんな時、心にすきま風が吹いているそんな時、国家から「君が必要だ」と言われたなら揺らいでしまう。「お国のお役に立てる」と若者が戦場に自分の存在意義を見出すのは、とても不幸なことだと思います。国家があるべき他者に成り代わり一定の価値軸となる時、私たちは大きな幻想の中に生きることになります。かつての日本がそうであったように。
だから、経済的困窮の解消と共に社会的孤立をいかにして解消するのかが、抱樸の活動の原点です。それは「人を戦場に向かわせない」ための取り組みだと思います。この意味で抱樸の活動は、「平和のための活動」だと考えています。「貧しさ」とどう闘うか。同時に「さびしさ」とどう向き合うか。人は人と一緒に生きていく中で「お互いの存在」をなくてはならないものとして行くのだと思います。ウクライナで現在進行している悲劇が一日も早く終わること、平和が訪れることを祈念しています。

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