(西日本新聞でエッセイと書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
僕らが出会った路上の人の九割以上が「最期」に家族が来ない人たちだった。結果「出会いから看取りまで」が抱樸のスタイルとなった。現在、単身世帯は4割に近づき65歳以上の孤独死者数の推計値は2万6千人以上(ニッセイ基礎研究社調べ)。野宿のみならず「帰れない人」は確実に増えている。
田中さん(仮名)は都市高速の下に暮らしていた。しばしば暴走族に襲われ放火もされた。お酒が好き。温厚。口数は少ない。襲撃のことも「なんであんなことするかな」と笑顔で話す。しばしば飲んでは転ぶので顔にはいつも擦り傷があった。その度に前歯が減っていった。かさぶただらけの顔でにっこり笑われると少し怖い。でもかわいい。田中さんのことを悪く言う人はいない。
抱樸の自立支援住宅に入られたのは2004年。野宿という緊張から解放されたせいか自立後、次々に病気になられた。「せっかく家に住めたのに」とやはり笑顔で話される。何度かの入退院の後、「もう帰れない」こと悟られたのか最後の入院を拒まれた。遂に入院、数日で天国へ。家族は来なかった。葬儀は私たちが行った。そんな田中さんを励ますように仲間やボランティアが詰めかけた。
10日ほどが過ぎたある日、ベルが鳴った。ドアを開けると田中さんが立っていた。心臓が止まるかと思うほど驚いた。足はある。顔の傷は無い。そっくりさんか。「田中の弟です」とそっくりさんは挨拶された。教会の納骨堂を案内し、お骨をお渡しする。やはり物静か。田中さんは、自立後故郷を訪ねていたという。「墓参りに来た」と。弟さんは「悩んだが迎えに来ました」と涙を流された。いろいろあったのだろう。大事そうに骨箱を抱えた弟さんが「兄ちゃん、帰ろう」と一言。胸が詰まった。
「帰ろう」。終わりの日にこのことばが聴きたい。単身世帯や孤独死の増加を見ると「身内の責任」だけで済ますことが無理なのは明白だ。赤の他人が葬儀を出し合う。希望のまちは「帰る場所」を目指す。
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