生きる

12/11巻頭言「キリスト教愛真高校 卒業感謝会 保護者代表感話 その➁」

(2019年3月9日息子の時生が高校を卒業した。その時の保護者感話)
なぜ、そう思うのか。卒業生の語った三年間の苦難が全く無駄ではないと彼らが示してくれたからです。だから愛真高校自身のしんどさも、全く無駄ではないと言えるのです。神様は無駄なものをお創りになられるほどお暇ではないからです。
今から3年前、東八幡キリスト教会に一人の少女がやってきました。少年院から出てきた彼女は、子どものころに母親と別れ、その後、施設や里親さんのところを転々としていました。筆舌に尽くし難い人生を歩んできたのです。私たちが出会った時、すでに二十歳になっていましたが、彼女の口癖は「わたしは、どうでもいいいのちだから」でした。その後も、彼女は何度か自らいのちを絶とうとしました。その度に「どうでもいいいのちだから」と言うのです。
そんな彼女に東八幡教会が伝え続けていることは、「神様は、どうでもいいいのちをお創りになるほどお暇ではない」ということでした。この言葉はこの三年間の東八幡教会の標語になっています。礼拝の度に司会者が、「教会標語 神様は、どうでもいいいのちをお創りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するためにひとりを大切にする教会になる」と宣言します。なかなか、実行は難しいですが、このことばは事実です。 
人生には、無駄もなければ、遠回りもありません。この春、卒業を延期した人もいます。しかし、それは遠回りではありません。当然、人生には近道もありません。「急がば回れ」と言いますが、事実ではありません。回り道と思うその道が、あなたにとって唯一の道だからです。最初から道は一本しかないのです。
パウロは、コリント人への第一の手紙10章13節で「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」と言います。「試練と共に、逃れる道も備えてくださる」は、まるで、今のしんどい道の他に、もう一本、別の道が存在しているかのようです。だから、いまの自分は本当の自分ではないというようにも思ってしまいます。この箇所について、W・バークレーという高名な学者が、次のように解説しています。「つねに逃れる道が備えられている。これは非常にあざやかなイメージをもったことばである。すなわち隘路(あいろ・狭い道の意味)、細い山道から出る道を意味している。」                          
つづく

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。