「いつになったらあの日に戻れるか」。多くの人が嘆いている。何もかもが変ってしまったのだから、気持ちはわかる。だが「もう戻れない」と私は思う。コロナが終息しないということではない。「戻る必要はない」ということだ。
災害は、社会に存在した矛盾や格差、差別、構造的脆弱性が拡張し露呈する事態。「新型」、「未知」と言われるが、病気以外は元々社会にあった問題に過ぎない。「派遣切り」、「雇い止め」。経済動向で自殺やホームレスに追い込まれる社会。それが「戻りたい社会」か。今後、仕事と同時に住宅を失う人が増えるのは確実で今私達(抱樸)は、それに備えて準備を整えている。「新しい生活様式」が議論されるが、新しくなる前にやっておくべき宿題がある。それを済ませてから、もう一つ別の(オルタナティブ)社会へ移行したい。それが新型コロナを生きた者の責務だ。
テレワークなど「新しい生活様式」が定着しつつある。そんなに素早く「新しく」はなれない私がいる。ネット会議が終わり「退出」ボタンを押す。目の前の人はいなくなり、私はそのまま椅子に残される。ダラダラ会議は一掃され効率化した会議が続く。短時間で終わるが、私には少々窮屈。「オン」しかない。「無駄」が無い。終了後の「オフ」も無い。二時間会議をして、その後三時間飲むなど、「どうでもよい時間」が私には必要なのだ。PCに映しだされる私は胸から上だけ。ズボンをはいてなくても平気。見えないところは無いのと同じだから。これまで具体的、肉体的に出会ってきた私にとって、このコミュニケーションに慣れるには相当時間がかかる。果たして僕は、この目の前の人と本当に出会っているのか。
ホームレス支援の現場は「臭い」に満ちていた。長らくお風呂に入れなかった人、「しかぶっている人」(北九州の方言でおもらしを言う)。酒と汗の臭いが折り重なって「野宿臭」となる。道を行くと「野宿臭」がする。「いる。近くにおられる」と勘づき、捜すと暗闇にたたずむ人を発見する。ブルーシートのテント小屋の中で亡くなった人。腐敗が進み凄まじい臭い。一度それを嗅ぐと、臭いは数か月、数年、記憶となって残り続ける。それが出会いであり、出会った責任だ。「臭いが無い」と会った気になれない。臭い付きで人と会いたい。だが、コロナ状況下では許されない。それでも「どうやって臭うような出会いをするか」模索し続けなければならない。「濃厚接触は過去、これからはネット」とはいかないのだ。私や抱樸は、おいそれとは「新しい生活様式」にはいけない。残念ながら。
コロナ禍という苦難が続く。これはチャンスでもあるかもしれない。「貧すりゃ鈍する」と言われる。違う。「貧すりゃ出会う」、「貧すりゃ考える」。それが人だ。新学期が始まる前に宿題を終わらせたい。今、踏みとどまって「何が捨てても良いもの」か、「何が無くてはならないもの」かを見定める時としたい。
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