六月二〇日。親父が逝った。九一歳。男の平均寿命からすれば大往生だが、家族となればそうはいかない。「ああしておけば」「こうしてやれば」と尽きぬ思いにくよくよする。実家に戻らず親不孝を重ねたにも拘わらず、もう会えないと思うと淋しい。勝手なものだ。
父方の祖父は中国天津で布の商売をしていた。親父は学校を卒業し戦地へ。敗戦となり、帰国できると期待していたが、帰国船は日本に向かわず日本海を北上。着いたところはシベリヤだった。抑留生活は二年半続いた。九死に一生を得て帰国。迎えに来た母親は骨と皮だけになった長男に驚いたという。その後同志社大学を卒業しサラリーマンとなった。日本の最も忙しい時期を働き抜き家族を養った。
世間は平和になったが、親父の机の引き出しにはシベリヤで使った手作りの木製スプーンが隠すように仕舞われていた。子どもの頃、時々忍び込んでは手に取った。抑留時代のことは滅多に話さなかった親父だが、あの引き出しの奥で親父の戦争は終わっていなかったように思う。だからか、親父は「戦争はあかん(ダメ)」と明確に言っていた。
僕は小学四年生で教会と出会い、中二でキリスト者になると決めた。その事をお袋に相談したところ、日ごろ我が家の主導権を握っているように見えていたお袋が「父さんに相談しなさい」と言う。親父に思いを伝えると、「自分の人生だ、お前が決めなさい。しかし、一旦決めたなら最後まで責任とらんとあかん。途中で投げ出すようなことはあかん。それと、何教であっても墓参りだけはするように」と親父は言った。僕は、あの日「自分の人生」を意識した。
大学で釜ヶ崎と出会った。結婚。その後は牧師業とホームレス支援に没頭していった。自分で選んだ道だが、あの日の親父のことばが背中を押したようにも思う。「責任を取る」「投げ出さない」。ただ、その結果、実家にはほとんど帰らず三〇年が過ぎていった。昨年秋に親父が倒れたとの連絡が入る。慌てたが、ホームレス法延長などもあり、相変わらずの状態で数回顔を見に行けただけだった。すべてを兄貴夫婦に押し付け、僕は飛び回っていた。当然、親の死に目に会うことは叶わなかった。
僕がホームレス支援をやり続けたもう一つの理由がある。それは子どもの頃の思い出。一言で言うと「家族という原風景」が自分の中にあったこと。親父は忙しいサラリーマンだったが、それでも我が家には「家族」があった。クリスマス、お正月、家族旅行、それだけではない「何気ない日常」の中に「家族」は常にあり続けた。一方で野宿者の多くが「家族」を失っていた。彼らは、経済的困窮(ハウスレス)のみならず、社会的孤立(ホームレス)状態にあった。「家族」ではない赤の他人が「ホーム」に成れるか。それに挑戦し続けている。野宿者支援は「家族を社会化する」営みだと言える。その「家族」の原形と必然を僕に植え付けたのは、他でもない実家であり、親父であり、お袋だった。親父が死んで一週間後、NPO抱樸の互助会主催のバスハイクに参加した。そこには「親父たち」がいた。この三〇年で奥田禮一の他に個性豊かな「親父たち」が僕には与えられた。神の家族。本当に感謝なことだ。
でも・・・・。今日はあえて言いたい。「禮一父さん、正直さびしいよ。しかし、僕はもうすこし責任とろうと思う。投げ出さないで最後までやろうと。天国で見ててください。父さん。さようなら、ありがとう。父さん。」
この記事へのコメントはありません。