社会

救いは、すべての人に

ネットサイトに「東京経済オンライン」というものがあるが、二週間に分けて慶應義塾大学で財政学を教えておられる井手英策教授との対談が掲載された。井手先生が主張される「貧困救済ではなく誰もが利益を受ける普遍的給付」には多くを学んだ。その中で「宗教談義」にも花が咲いたので紹介しておく。
【井手】僕も宗教に関心がありました。カトリック系の高校にいたこともあって、毎週ミサに通って自分なりにあれこれ考えていました。宗教がひとつの生きる意味を与えてくれることは、僕自身が経験しているし、僕の大好きな思想家や哲学者は、多くがキリスト教的な宗教の世界の中で生きることの意味を考えてきた人たちです。けれどもいま、宗教と距離をとるようになって感じるのは、人間は家族のため、親・兄弟、友人のため、すなわち愛する人のためというふうに、生きる意味や価値を自分なりに見いだしていくということです。僕がいま突き動かされ、発言を繰り返しているのは、結局は、家族という愛の対象さえもが、金銭的な対象になってしまっているからです。ベーシックな部分をきっちり整えられれば、人々が自由に愛し合うことができる世の中になり、それぞれが生きる意味や価値を見いだしていくんだろうな、と楽観的に考えているんです。
【奥田】なるほど。ベーシックな部分が前提であることは、実は宗教の世界にいる私にとっても大きな課題です。私は、キリスト教がなぜダメになったかを考えます。それは宗教の本質である「救済」における普遍性を失ったからです。キリスト教は、「洗礼を受けクリスチャンになった人は救われる」と言い、「洗礼を受けていない人は救われない」などと恐ろしいことを言ってきました。このように人間を平気で差別する宗教に誰が魅力を感じるでしょうか。イエスは、そんなことを考えてはいなかったと思います。キリスト教の持つ人間観は「すべての人は罪人である」という普遍的認識です。それは、悪人という意味だけではなくて、弱さや限界を持つ存在であるということです。この本質は、クリスチャンになろうが、なるまいが変わりません。人は人に過ぎないという普遍的な認識が前提であるのなら、当然すべての人に救済が必要となります。救済は普遍的でなければならなかった。
にもかかわらず「信じる者は救われる」「信じないと救われない」と脅迫じみた伝道をし、救済における普遍主義を教会は自ら放棄したのです。
たとえば五人家族で、自分と息子だけがクリスチャンだとします。少々神話的なキリスト教理解で表現すると、クリスチャンは天国へ行き、それ以外は地獄にいく。僕は牧師だけど、それでは困るわけです。だったら自分の天国行きの権利は放棄して、家族全員で地獄に仲良く移住したいですね(笑)。これはマンガじみた言い方ですが、「人の救い」という普遍的な事柄において分断を持ち込んだので、信仰が自分の救済のことで汲々とするようになり、他者性を失うことになりました。自分の救いだけを考え「自分教」のようになった教会は、社会から見捨てられました。信仰が人の生き方や他者との共生、あるいは社会形成につながらなくなってしまったからです。
(現在ネット上で全文が読めます。「東洋経済オンライン 井手 奥田」で検索を)

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