(中外日報は、主に仏教界の方々が読まれている新聞である。この度、4回にわたり連載で随筆を書くことになった。テーマは、宗教および宗教者が担うべき困窮者支援の在り方について。宗教がその気になれば、大きく社会は変わると信じて書くことにした。その第3回)
宗教には「救い」に関する教えがある。困窮者支援の現場においては、それを「支援」と言う。相談員たちは、当事者の問題をいかに解決するかに取り組む。
1988年の正規雇用率は85%だった。あれから30年が過ぎ、正規雇用率は60%となり、約2000万人(40%)が不安定な職に就いている。10前のリーマンショック時の有効求人倍率は0.4倍。一つの椅子を三人が奪い合った。座れなかった人は「努力が足りない」と言われたが、実際は「椅子」が足らなかった。現在の有効求人倍率は1.5倍と改善、確かに「椅子は足りている」。だが、その椅子は「数年しか持たない脆弱な椅子」となっている。三年前労働者派遣法が改定され、同じ派遣先に三年以上勤務出来ないこととなった。失業を脱し再就職しても、その先が不安定雇用だと、その後に第二、第三の危機が訪れる。「問題解決」以上に、次の危機の日に「誰に助けてと言うか」が勝負となる。
野宿者が抱える課題は二つある。第一は「宿無し」に象徴される経済的困窮。この状態を「ハウスレス」と呼ぶ。アパートに入居後訪問する。布団に眠り、就職もできた。問題は解決したが、部屋の中にポツンと座るその姿が、路上の時と変わらない。何が解決し何が解決していないのかが問われた。「畳の上で死にたい」と言って人が、アパートで暮らしだす。次に語られるのが「僕の最期は誰が看取ってくれるか」である。「ホーム」と呼べる関係を無くしているのだ。これを「ホームレス」という。ハウスとホームは違う。日本は無縁(ホームレス)社会となった。国際調査では、アメリカの約5倍日本は孤立していると言われる。「縁の国」は過去の話となった。だから、今日における「支援」は、「問題解決型」のみならず、「共にいる」こと、すなわち「伴走型」である必要がある。
聖書のイエスは罪を贖い、病人を癒す。これは問題解決型である。一方、イエス誕生の場面で救い主は「インマヌエル(神が私たちと共におられる)」だと、と紹介される。救いが「関係概念」で捉えられているのだ。この事実は教会においてあまり注目されていない。
「経済的困窮」と「社会的孤立」が今日の困窮概念の中核だとすると、「救い」に携わる宗教の側は、救いを観念にのみ閉じ込めず「問題解決という具体的働き」と「共にいるという関係」において捉える必要がある。「宗教福祉ネットワーク」は、この二つの領域をカバーする。 (つづく)
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