(「仏教タイムス」という週刊の新聞に記事を書いた。発行は毎週二万部)
あれだけ話題になったにも拘わらず今年も9月1日に子どもの自死が相次いだ。この国の闇は、格差であり、差別でもあるが、私は「子どもが自らいのちを絶つ」ことが最も大きな闇だと思っている。子どもは、泣いていいし、逃げていい。なのに、なぜ子どもたちは「助けて」とも言わずに死んでいくのか。それは「大人(社会)が助けてと言わない」からだ。子どもには、「他人に迷惑をかけず、ひとりで生きていける人が立派な大人」に見えるのかも知れない。しかし、それは「うそ」である。なぜならば、人はひとりでは生きていけないからだ。大人は、それを隠している。
国は、2015年「生活困窮者自立支援制度」を施行させた。「制度の縦割り」を超える「包括的相談事業」であり「断わらない相談」を原則とした画期的な制度であった。結果、全国に1,000ヶ所余りの相談事業所が設置された。だが、1億3千万人が暮らすこの国で1,000ヶ所の相談窓口は、あまりにも「貧弱」と言わざるを得ない。国内のコンビニの数は5万5千以上あると言われている。寺院の数はそれ以上の8万。その他にも日本には地域に根ざした数多の宗教施設が存在する。もしもこの内の1割の宗教施設が困窮者の窓口になったとしたら、国が創設した相談事業所の10倍以上の社会資源が誕生することになる。
数だけの問題ではない。とかく国が進める「困窮者支援」というものは、経済的困窮に特化される傾向にある。就職できるかは、確かに重要な課題である。しかし、そもそも「人は何のために生きるのか」あるいは「人は何のために働くのか」という根本的な議論がなされないまま「制度」だけが先行していくのはいかがなものか。私は現在厚労省社会保障審議会の委員として「困窮者支援制度」の議論に参加しているが、宗教者(牧師)である私は、「人生の意義」に関する議論が必要であること、さらにそれこそが「宗教の役割」なのだと考えている。しかし、国の会議ではなかなかそのような話題にはなりにくい。
宗教は今後、日本社会において生き残ることができるか切実な局面にいる。困窮者支援をすることが、「宗教の付加価値となる」という意見もあるが、それは違う。そもそも宗教が「自己保身」のために「困窮者支援」を行うことは「動機不純」である。そうではなく「困窮者支援」はそもそも「宗教の本務」なのだ。仏教はもとより宗教界が立ち上がるならば、この国は救われる。
宗教の役割とはなにか。それは「人間の弱さ」を前提とした社会を創ることにある。私は、宗教者とは「完成された強い人間」ではなく、「神仏に頼らないと生きていけない人間であることを正直に認めた者」だと考える。今日の社会は「強くなること」だけを求めてきた。この潮流に対する「対抗文化(カウンターカルチャー)」として宗教界が立ち上がるべきだと思う。どこから手を付けていいかわからないが、混沌とした中でも何かをはじめなければならない。僭越なら、早急に「宗教者による困窮者支援のネットワーク=宗教福祉プラットホーム」を立ち上げたいと祈っている。(追伸 キリスト教会は大丈夫か)
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