信仰

『すべて』と『すでに』を告白する教会

先週南小倉バプテスト教会の「信仰告白お披露目会」に参加させていただいた。5年の歳月かけ紡がれた言葉は、教会で「生き」、いや「生かされた人々」、あるいは「いのち拾いをした人々」とキリストとの出会いの足跡を彷彿とさせた。
告白は「私たちは、イエス・キリストを信じる」に始まる。先在し「すでに」働くイエス・キリストの存在を告白している。特に注目するのは、救いを既存の事実として万人に宣言したこと。「イエス・キリストは、すべての人の救いとなった。わたしたち人間はイエス・キリストに伴われ、すでに赦され、贖われている」。現在、多くの教会はこの理解に立たない。「『すべて』の人は『すでに』救われています」。このような理解を「万人救済説(ユニバーサリズム)」と言うが異端視されている。なぜ多くの教会は、この「すばらしい告白」をしなくなったのか。
研究者によると古代キリスト教においては「万人救済論」に立つ教会が多数あった。当時のキリスト教最大の神学者と言われた教父オリゲネスも「万人救済」を訴えたが後に異端とされた。当初迫害されていたキリスト教会が組織化し、体制化する中で教会は「救済」を独占していった。「救済」を自分たちの管理下に置き、自分たちに「迎合した」人だけが救われると説いた。民衆は分断され統治されていった。十六世紀になり宗教改革がなされてカトリック教会の一元支配は終わった。だが、対抗する存在として登場したプロテスタント教会もまた「独占構造」を持ち続けた。バプテスト教会もこの流れの中にいる。
新旧両教会とも、信じた人、すなわち教会員だけが天国に行けると説くが、それは差別だと思う。そもそも「信じた」言っても、それは弱い。自分の意志や決断に「救い」の根拠を置くことが、いかに危険であるかを落ち着いて考えればよく分かる。
そうではなく救いは神の意志であり、神の決断なのだ。イエス・キリストの十字架は、私たちの意志に先立つ神の意志において実行された。こちらの「要望」に応えてくださったわけではない。本当の愛は、一方的であり、「取引き」ではない。
イエス・キリストにおける救済、キリスト教会が述べ伝えるべき「救い」には、二つのことばが語られなければならない。すなわち「すべて」と「すでに」である。「すべて」の人が救われる。それは「すで」に実現している。
そうなると私たちのなすべきことは何か。すでにある恵みに身を委ね(これは「信じる」ことと言うならば、それで良い)、その恵みに応答して生きることだ。キリスト者になるとは、恵みに対して応答する者として生きること。愛された者として愛する者となる。赦された者として赦す者となる。最も小さかった私に、イエス・キリストがしていただいた数々のことを他者になすことに他ならない。キリストは他者の十字架を負われたのだから、キリスト者も他者の十字架を負うことに召されている。
当然、キチンと応えることさえできない。私は「罪人」過ぎないからだ。ただ「赦された罪人」としてのみ生き得る。こんな私も含めて、「すべて」が「すでに」救われている。出来なくて当然。それでも共に生きようと思う。私たちは赦され復活するのだから。「すべて」と「すでに」。いのちが分断される時代における福音である。

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