未来おっさん:福岡市博多区のチラシデザイン・印刷担当者サイト

【1.色弱デザイナーが出来るまで】絵が好きだったのに、文芸部。そんな高校時代

昔から絵を描くのは好きだった。
好きだったのに、何故か、絵を描くことをメインに団体行動をしたことがない。

高校生の時に、二度だけ、同人誌の制作に携わったが、そのサークルの代表渡辺が、受け付けていた注文販売の金を持ち逃げしてから、そういったコトに参加するのはやめた。

ただ、高校3年の頃、文芸部の顧問、久森先生から誘われて文芸部へ入部した。
文章を書くのであって、絵を書くというものではなかった。

男子4名と、女子3名。
後輩女子は、2名でメガネの素朴な親しみやすい子と、若干色黒の、コンプレックスの強そうなちょっと可愛い子だったような気がする。
後輩男子の記憶は無い…。
男の記憶なんてそんなもんだ。

私は部長だったが、比較的何か特別な色恋沙汰のようなイベントがあった記憶は無い。
何もしないまま、高校生活が終わった。
他の部員達は、甘酸っぱい恋愛ごっこを楽しんでいたようにも思うが、羨ましい気持を持ちながらも、自分は、専ら傍観者だった。

その部員の中には、先に注文販売の代金を持ち逃げした同人誌のサークル代表がいて、そんなことがあっても、彼とは仲が良かった。
実際に、こいつ、許さないと思う程、正義感に燃えている訳でもなく、一緒に悪巧みをしたわけでもなく、事なかれ主義満載の、友人関係が、ただ続いていた。
渡辺は、明るくて面白かったし、変だったし、美少年の括りに入る彼は、年下、年上関わらず、とにかく女性にもてていた。
そう書くと、その頃の彼はリア充のように聞こえるが、実はそうではなく、どちらかと言えば、いじめられる側の人間だった。

そう、高校は、イジメの思い出に終始する。
いじめられる人間は、基本、存在感が、見る影もなくなっていくものだが、渡辺は違っていて、いつも声が大きく、バカみたいにはしゃいでいて、自慢話が多かった。
それが、さらにいじめる側の人間の反感を買っていたのかもしれない。

私たちが通っていた学校は、大牟田でも大きな高校で、普通科、技術科、電気科、家庭科、商業科などとさまざまな科があった。
炭坑町の大牟田という町柄なのか、荒っぽい人間は多く、「学食で誰々君が先生を殴った」であったり、そもそも、柔道の誰々先生は、「柔道の試合中に人を殺めた事がある」だの、そういった物騒な話題には事欠く事がなかった。
バイクでスピード違反、警察の追跡を振り切って逃げたなどという話は、当たり前。

そんな物騒な学校の中で、チャラチャラして子供のように大声ではしゃぎ、リア充を気取る渡辺は、気の荒い鬱屈した思いを抱える人間にとっては、目障りだったのかもしれない。

そういったいじめる側に、新飼という、細身の色黒、酷薄な眼をしたのがいた。
毎日のように、特定の人間を教室の後ろに呼び出しては、嬌声と、罵声を轟かせていて、それを、皆、当たり前の事の様に受け止めていた。

そんな中、いじめ自体が、我々の学年でも問題になっていて、内野教師はお決まりの、「イジメとかダメなんだよね」と、何も考えない説教を繰り返す事となる。一時期、進学に差し支えるとのことで、いじめる側の人間を退学にするという話も持ち上がったようだが、結局は、事なかれ主義が、生徒間にも教師間にも蔓延しており、グダグダのままその案は採用されることはなかった。

柔道が、私の高校では盛んであった。
全国大会に出場するほどの勢いを持っていたこともあって、授業の一環として『格技』として、柔道が週に3回時間をとってあった。
そして、それは、毎年恒例化していることであったが、問題児を柔道の格技の授業の時間に『締め落とす』という、見せしめの時間があった。
今考えてみれば、それは、教師の考え出した、いじめてる側に対する制裁だったのかもしれない。
事前に、誰がイジメを行っているのか、きっとリサーチをし、写真でそいつの顔を覚え、お前、前に来いと、唐突に集合がかかる。

そして、柔道部の顧問が、授業中に衆人環視の中で、こういう技があると説明口調で締め落とすのだ。

教師が、背後から新飼の襟元を掴み、足で腹を締め付けるように固定する。
頸動脈を柔道着で圧迫し、血の流れを遮る。
意識が遠のき、一瞬気絶状態になる。
それが、締め落とすということ。
締め落とされた人間は、カラダを引き攣らせたり、そのまま落ちたり。
そんな無様な姿を晒す。

一種、凄惨な雰囲気が流れる。
どちらかと言えば、僕自身もいじめられる側だったから、そういうシーンに対して、眼を背けたくなる気持はあった。
いじめられる人間は、いじめるシーンに対して過剰に反応する。いじめられている人間を自分の身に置き換えて考えてしまう。

新飼の、無表情でありながらも、ギョロつく眼や、テンションの落ちた顔は未だに覚えている。
締め落とされる前も、後も、何が起こっているか、理解出来ていない顔だ。
いわゆる、教師からの、指導と言う名の見せしめだ。
教師によるいじめを、身を以て経験してもらおうという企画、アトラクションだったのかもしれない。

そして、柔道が終わったあと、教室に帰る時に、新飼は囁くように渡辺に言う。
「ざまぁみろとか、思ったろうが?」
怒りが収まらないようだった。

そして、そういう教師直伝の技を覚えた新飼は、教室に戻り次第、手当り次第に『落とす』ことに夢中になる。
新飼が行った「落とす」という行為を受けたのは、何人かいた。
その中でも、林くんは、その屈辱と、人が人を傷つけることにショックを受け、ボロボロと涙を流す。
優しい奴だった。イジメの対象になるような、派手さも無ければ、嫌味の一つさえ言わない奴だった。
「ギャハハ!泣きよるやん、もうよか、行け!」そう、ゲラゲラ笑っている新飼。
私も含め、誰も、何も言うことができなかった。
彼は、弱い人間にしか、そのような行動はとらなかったし、誰も、ケンカの仕方を、注意の仕方を、それを止める覚悟さえ知らなかった。
そして、私は、その時に口をつぐんでしまったことを、今、50歳を前にした今でも考えるのである。

教室の中では、大学受験に際して、授業の合間の休み時間に、席に座り、勉強をしようとすると、背後からガツン!と新飼の肘が落ちて来る。無防備な状態で、やられるのだ。驚きと、痛みと腹立たしさと、言い返せない腹立たしさにうつむくしか無い。

それが繰り返されるため、勉強を廊下でやる生徒も出てきた。
教室内よりも、廊下の方が人が多い、異様な雰囲気である。
要領の良い人間は、自宅でやってきた勉強の答え合わせを立ち話で友達と一緒に話していた。
さまざまな事、さまざまな感情を、切り離して考えねばいけなかった時期であるが、そこまで出来る人間は、非常に稀で、大半の生徒は、生きる事に器用になるには、人生経験が少なすぎた。

社会自体が、学校自体が、弱い人間に対しての負荷を与える時代。
教師もしかり。
週に2~3回小テストがあり、それに合格せねば、頭上へ箒の柄が落ちて来る。
流れ作業の様に、振り下ろしては、はい!次!!と。
眼から火花が散るくらい、竹で出来たそれは痛かったが、その痛みも一瞬だ。
その一瞬を我慢すれば、勉強しなくても良い。

勉強すれば、新飼からの頭上への肘打。
勉強しなければ、講師からのほうきの柄。
生徒達は、悪意の無い私怨の無い方の教師の体罰を選んだ。

そうして、成績は下がり続けた。

駅伝部の顧問をしている講師は、赤ら顔の、爬虫類のような眼をしていた。
「あー!授業したくーねーな!」と大声で言いながら教室に不機嫌に入って来て、授業を始め、不機嫌さゆえに、窓の外を眺めた学生に、「なんか、きさん!オレが喋りよろうが!」と言いながら殴りかかるという。
生徒達は、話のネタとして、殴られた生徒の無様さをあざ笑い、殴った先生を恐れ、気違い扱いした。

我々は、そういった中で高校生活を過していた。

そんな中でも、おそらく、私は要領がいいほうだったかもしれない。
新飼に、「おい、ちょっと来い!」と言われて、呼ばれる。
「オレの腹なぐってん?」ニヤニヤ。
5割くらいの力で殴ってみる。
「すげぇ!硬ぇ!どうやって鍛えてるん?」
などと、新飼の鍛え自慢に話を振っていくという、会話を身につけていた。
比較的、僕はそっち側の人間なのだというアピールだ。

帰りには、新飼は、自転車通学の私の後ろに乗って、帰宅途中迄走った。
イヤでイヤでしょうがないくせに、イヤな話、ネガティブな話は一切せずに、ここの景色が好きだとか、信号が一斉に変わるのが気持いいなどという話題で場を持たせた。

対教師にしても、文芸部の部長として、職員室で、一番力を持っているであろう久森教師に気に入られていると、友人から揶揄されるほどだった。

調子が良いイヤな奴だ。

人との関わりが、好きだった方ではなかったが、その時期から、『超絶』嫌いになった。
渡辺と、林くん、柿野。みんな友達だったが、みんな、新飼からいじめられる。
そんな中で、自分自身だけ要領よく、仲良い雰囲気で、自分にウソをついて、二人乗りで青春ぶったマネをしている。
オレはクソだ。
そんな自分が嫌いで、一旦、家出しようとした。
環境を変えれば何とかなるかと思っていたが、今居る場所から、逃げ出したかっただけだ。

鉛筆書きで、置き手紙。
大好きだった本を山ほど売って、奈良へ行って坊さんになろうと思った。
それを母静子に見つかり、泣いて懇願された。
「お前の考えてる事がわからん」と言って、母、静子は泣いた。

自分が大嫌いだった私は、その涙にも、全く心が動く事はなく、口臭の臭いババアが何かしら言っている嫌悪感に絡めとられていく。
自分の自由を更に奪われて行く精神的な圧迫感しかなかった。

何一つ自分で動かすことができない。
何一つ信じられない。
何一つ明るい未来が見えない。
そんな時代だった。

絵を描きたいと思ったが、何も描けなかった。
美大に行きたい!と思ったが、自分は色弱だった。
先に行く道が、全く見えて来なかった。
先に行く道が全く見えないと自暴自棄になる。
なりゆきにまかせるままに、1枠だけある推薦入学を受けられるという大学へ。

柔道部所属のごつい奴に、「お前が推薦とったけん、オレが受けられんやったやんか!」と凄まれたりしながらも、決まった事。

受験勉強もせずに、大学生になった…。
行った大学は、美術に全く関係の無い、熊本の商科大学だった。