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【寄稿】平成28年(2016年)熊本地震

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【寄稿:熊本地震について】
今回の記事は、『ペンネーム:ゴン太さん』に私からお願いして書いていただきました。私事ですが、私が熊本に住んでいたのは、10年以上も前のこと。当時にお付き合いがあった方とも、ほとんど交流がなくなり、時折やり取りする知人が数人いるくらいです。
今は、熊本に非常に近い福岡という場所に住んでいるとはいえ、テレビのニュースなどでしか状態を知る事ができません。情報収集に役立つと思っていたネットの世界も、様々な情報が混在、さらに、戸惑うばかりでした。
影響力が強いため情報が規制される『テレビ』と、様々な人が様々な事を条件反射的に発信し続け、必要な情報にフォーカスを当てられなくなって来た『Facebook』。

本当に必要なお話は、震災を経験した人、身近な人からの声という一次情報であるのだけれど、その声がかき消されていくようでなかなか伝わってきません。
刻々と変化して行く熊本の現状を見つめれば見つめる程、混乱し、条件反射で発信されて行く情報に、情報の精査を行うことに疲れ果ててしまう。

熊本→福岡という距離に住んでいながらも、混在した情報で身動きがとれません。
外から見た被災地と、内側から見た被災地とのギャップそれを埋める為にも、是非、現地で実際に情報に触れている人のお話を聞きたかったというのが、そもそもの始まりです。


また、それに加えて、私の仕事『デザイナー』という働き方が、こういった災害時に何かの役に立つ方法は無いかと、模索していた時でもありました。『デザイナー』は、人の作品を作り続けるという受け身の作業です。
依頼者ありきでしか成立しない仕事ですが、大好きで、ずっと続けて行くと決めた仕事です。
受け身の仕事を行いながらも、会社と言う組織の業務ではなく、個人としての動きを綴って行こうとブログを立ち上げ、支離滅裂ではありますが、いろいろな情報発信を、本サイトで続けています。

企業に属している人達が、企業という立場を通してしか話が出来ない部分を、匿名としてでも発信する事ができれば。
組織としての常識にとらわれた声ではなく、世間一般には、非常識ではあるけれど、個人として、どうにもならない悲痛な声があるはずで、そんな声をこそ、本サイトで拾っていく。そう位置づけて、寄稿をお願いしました。
自分が仕事で学んで来たスキルを、少しでも誰かの役に立てる事ができればと感じています。


【熊本のゴン太さん】は、熊本に住んでいた時にお世話になった業界の先輩であり、編集者という情報を伝えるプロです。
何よりも、私自身が現在のありのままの熊本を知ることができればというわがままでゴン太さんへ好きなカタチでの文章をお願いしました。

書きづらいこともあるとおっしゃいます。
まだ自分の中で整理がつかず、書けない部分も沢山あるとおっしゃいます。
それでも、熊本の今回の震災をゴン太さんの目線で書いていただけませんかと打診すると、快諾していただけました。


【ゴン太さん】は熊本在住。一男一女の母。(息子は就職して東京。今は娘と二人暮らし。)自分の事はとりあえずペンネームでお願いしますとのこと。
書きにくい事を書いていただく為のペンネームと、いろいろな思いの詰まった原稿です。
少しでも、誰かの考えを巡らすためのお役に立てば嬉しく思います。
ゴン太さん、感謝。

暗闇の中での激震。太陽が昇るたびに衝撃と落胆が訪れた。

熊本地震—。震度7という破壊力、あるいは突き上げられ、揺さぶられる体感を通して、「抗いがたい自然の力を思い知らされました」と言えば簡単だが、被災された方々の思いや被災地の痛みを慮るほどに「筆舌に尽くしがたい」という言葉の重さをようやく知るに至った気がする。

「大地震は夜間に起きる」ということを我が家の末代まで家訓として伝えようと決めたくらい、暗闇の中で激震が走り、太陽が昇るたびに衝撃と落胆が訪れた。「日はまた昇る」とはポジティブシンキングの代表的な言葉だけれど、夜が明けるたびに熊本の誇りである歴史遺産や水資源が失われ、人々の命までも奪い取られていった事実が突きつけられる。

そしてまた訪れる長い、ながい夜。真っ暗な車の中で息を殺してじっとしていた。ただラジオが、地震速報と被災状況をしゃべり続けてくれたのが救い。白んでいく空を眺めながら、これから知るであろう熊本の痛みを思い、また日が昇ってしまったという恐怖に包まれた。
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我が家は幸いなことに大きな被害を受けずに済んだ。4月14日午後9時26分、前震(という呼び方が気に食わないけれど)の時は帰宅途中で、国道を走っていた。突然、ハンドルが勝手に右へー。愛車は意思を持った生き物のように自走し始める。力一杯、ハンドルを抑えながら路肩でようやく停止すると、携帯が「地震です」と大声で飛び跳ねた。「最大震度7」という見た事もない数字を凝視し、視線を上げると目前のガソリンスタンドが20センチ以上の触れ幅で揺れ続けている。いや、自分も揺れていることにようやく気付いた。シケの海へ出た漁船のように揺れ続け、まさに今、震度7の地震に見舞われたことを理解したのは、無人となっていた国道が再び車で埋め尽くされた後だった。


だって、地震はそれで終わるはずだった。余震はあったとしても、本震以下であるはずと…。

帰宅すると勤めから帰った娘が、「揺れたね」と一言。被害状況を確認すると、「ソファーから“コロ助”のぬいぐるみが、“コロ助”した(転落したの意)」。オールドニュータウンに建つ古い戸建ての借家はよくしなるのか、意外と元気だ。

その日も何度か震度5以上の揺れが続いたものの、それほど気にせず。だって、地震はそれで終わるはずだった。余震はあったとしても、本震以下であるはずだと思っていたし、何よりも熊本が震災に襲われるなんて人生の想定外だもの。夜中に、会社の中がひっくり返っているとシャチョーから連絡があり、珍しく代休を申請していたのに休みを返上して出勤することに。
翌朝、テレビやラジオは、益城町を中心とする地域の壊滅的な被害を休む事なく伝えている。本当に熊本で大地震が起きたのだと息を飲んだ。とにかく、業務再開に向けてみんなで掃除、そうじ。日頃の行いを反省しつつ、もう二度と崩れないように、全部荷物は床に置いてやるさ。1日掛けて、かつてないほど社内を整理整頓し尽くした。週明けから気分一新、サクサクと業務が進むはずだ。


早めに退社し、自称・防災マニアは本能的にいろんなものを買い揃え、自己満足しつつ帰宅。娘と「昨日は怖かったねぇ」などと話しつつ、おにぎりを山ほど作って余裕しゃくしゃくだった。とりあえずガソリンは満タンにしておいたし、食料も避難に必要な物資も車に詰め込んでいたからね。それに、余震はあくまでも余震だった。

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一応警戒して娘は1階リビングのソファーに眠らせ、自分はテレビの前に転がった。万が一、大きな余震が来たらテレビを死守するのだ。我が家で唯一の財産をみすみす見殺しにすることはできないもの。

午前1時25分、振れ幅20〜30cm激しい揺れ。そして停電。暗闇の中。

時折、大きな揺れに襲われながら、テレビのニュースをガン見。うかつにも、うとうととまどろんだ午前1時25分、地鳴りとともに地面から突き上げられて飛び起きた。右へ、左へ、振れ幅20〜30cmはあろうかという激しい揺れ。そして停電。暗闇の中で、娘の名を呼ぶと「あい、あい」と声が聞こえた。「ソファーの中に体を低くして!」と叫び、テレビを抑えつつ、自分の体をステンレスのラックの陰に潜めた。家はギシギシと悲鳴を上げ、地鳴りが足下から聞こえてくる。

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「あんた、死ぬよ!」という娘の言葉。ようやく外へ転がり出た。

長い、ながい揺れ。10分を過ぎても、闇の中突き上げるような揺れが続く。娘は彼氏とスマホで連絡を取っているもよう。私は愛するテレビを抑えながら、ぐいぐい押し寄せて来るテレビラックと格闘中。15分を過ぎたころ、娘が「避難しよう」と勢い良く起き上がった。

「毛布を頭からかぶって」と私は叫びつつ、手探りでまだ温かいおにぎりをリュックに投げ込み、スマホを掴んで、それから猫らにエサとお水を・・・・・・。激しい揺れの中、眼鏡が見つからない。何も見えない。「あんた、死ぬよ!」という娘の言葉にうながされて、ようやく外へ転がり出た。

手が震えて車のキーが刺さらない。「落ち着け、落ち着け」と大声で叫びながら、エンジンがかかった瞬間、泣きそうに。「くそーっ、揺らすな」と叫びながらアクセルを全開させて、高台にある商業施設の広い駐車場に滑り込んだ。4月なのに冷え込んだ長いながい夜、見上げた星空。そして見下ろした夜明けのまちを一生忘れることはできないだろう。

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満身創痍の天守閣。武士の誇りを携えているような凛々しい姿に涙が溢れた。

一晩中、橋が崩落したとか、土砂災害が起きたとか、未確認のニュースが飛びかった。しかし、 SNSやテレビのニュースでは信じられないような惨状が映し出され、それらが真実であることを突きつける。熊本城が白煙を上げながら崩落する瞬間を見て、声にならない悲鳴を上げた。

仕事柄、これまで熊本の観光訴求や地域おこしの冊子などを数えきれないほど制作してきた。その大切な観光資源や遺産が一夜にして奪われてしまった事実を受け入れられない。「被災するとは、こういうことなのだ。復興という言葉はまだ、あまりにも遠く、あまりにも重い」と時折揺れる大地の上に、呆然と立ち尽くすしかなかった。「私に何ができるだろう」と考えた時に、まず記録写真を抑えようと。「復興の第一歩は今を知ること。受け入れること」。それが私自身の大きな壁だった。

熊本城周辺は個人的にひとしお辛い。これが毎日通って眺めていた熊本城の姿なのか。屋根瓦が落ちて鯱も失い、石垣も崩壊し、それでも天守閣は立っていた。満身創痍の中で武士の誇りを携えているような凛々しい姿に涙が溢れた。

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熊本市内の避難所は思ったよりも静かだ。関係者が忙しく立ち回る中、人々は不安な表情を浮かべながらも秩序を持って過ごしている。熊本人の精神力の高さを目の当たりにした瞬間でもあった。

また夜が明ける。こうして執筆している間も何度か揺れた。もはや地震なのか自分の老化現象で揺れているのか分からなくなっているのだからそら恐ろしい。数日、車中泊を過ごし、家に戻れたのはラッキーだった。それでも夜になると恐怖に襲われる。少し揺れても目が覚めて、もう眠りにつくことが難しい。それは二週間過ぎてもなお変わることない。
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「自分ができることをできるしこ」。「一人ひとりの元気が熊本の元気」

ようやく少しずつ復興への歩みが始まった。全国から多くの人々と救援物資が集まり、今の熊本を支えていただいている。まちには各都道府県の救急車やパトカー、そして自衛隊の皆さん。熊本のためにという尊い思いに支えられて、また一日が始まった。その思いに応えるためにも、「自分ができることをできるしこ」。そして、「一人ひとりの元気が熊本の元気」なのだと肝に銘じる。

熊本に暮らしていることを誇りに思いつつ、「今日もいっちょがんばろかね!」。

(この連載は、不定期で続きます。)

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